

創業からの60年間の歴史
1926-1986
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塩ビ技術研究所
第102期(1979年5月期)決算において、当社の売上高は1014億円(単独ベース)となり、創立50周年の目標として掲げた売上高1000億円を達成した。売上げ構成は、シリコーン、半導体シリコン、電子材料、セルロース誘導体が全体の4割を占めた。
一方、経常利益ではその大半をシリコーンに負う形で、海外事業、セルロース誘導体、半導体シリコンがこれに続いていた。そのなかにあって、塩ビ事業の赤字の改善が大きな経営課題となっていた。
国内塩ビ業界は、1973(昭和48)年の第1次オイルショック後の需要低迷により、1970年代後半は長く業績不振にあえいでいた。
当社は1978年5月に、塩ビ自立化対策を検討する常務委員会を鹿島工場で開催、生産性の向上や他社からの生産受託を含む鹿島工場での集中生産などが検討された。1979年1月には旭硝子からの生産受託が実現、鹿島工場は稼働率の上昇によって採算向上を図る努力を続けた。
そのようななかで1979年に発生した第2次オイルショックは、仮需を生んで生産・出荷量の一時的拡大をもたらしたが、1980年以降、その反動で一気に需要が落ち込んだ。
そのため1981年5月、国内塩ビメーカーは不況カルテルを結成して在庫調整を実施し、8月には塩化ビニール工業協会(現・塩ビ工業・環境協会)が「構造改善委員会」を設置して、危機打開策を模索していった。
業界全体の危機的状況に加え、当社では「優先塩素」が大きな負担となっていた。鹿島コンビナートでは、鹿島電解が生産する塩素を原料に鹿島塩ビモノマーが塩ビモノマーを生産し、これを原料として当社、旭硝子、鐘淵化学工業が塩ビポリマーを生産していた。
鹿島電解から塩素の供給を受けるにあたって、当社と旭硝子、旭電化工業の3社は塩素引き取り枠を設けていたが、鹿島進出当初から当社は他の2社よりも塩素の使用量が大きいため、引き取り枠を超えて塩素を優先的に引き取る特別枠が設定されていた。そして、この枠に応じて鹿島電解、鹿島塩ビモノマーの固定費負担も行っていた。
塩ビ需要が右肩上がりで伸びている時代には、原料となる塩素の優先的確保は、当社にメリットをもたらした。しかし、いったん塩ビ不況になると固定費負担が過重になるとともに、必要以上の塩素の引き受けが塩ビ事業の採算をさらに悪化させる要因となった。
第104期(1981年5月期)の当社の国内塩ビ事業は大幅な赤字となった。このため、1981年6月に「塩ビ再構築委員会」を設置して対策を講じたが、第105期(1982年5月期)も国内塩ビ事業は大幅な赤字を累積させ、当社の存亡に関わる深刻な状態となった。社内の一部からは、国内塩ビ事業からの撤退や事業売却という声さえ上がった。このような状況下、国内塩ビ事業の再生に強い信念をもってあたったのが小田切社長であった。小田切社長は、シンテック社長であった金川専務に、国内塩ビ事業立て直しの全権を委任することを決断。金川専務に、抜本的かつ迅速な改革の執行を託した。こうして1982年7月、常務委員会の賛同を得て、金川専務が塩ビ事業本部長を兼務する新体制が始まった。
金川事業本部長はさっそく、鹿島コンビナート基本契約の改定、販売方式の見直し、人事や組織の見直し、生産の合理化、販売直接費の低減などについて具体的に踏み込んだ方針を掲げ、本社・支店・営業所、工場、研究所が一体となった再建を推進した。

(参考資料)『塩化ビニル工業30年の歩み』塩化ビニール工業協会
国内塩ビ事業の改革における最大の課題は、鹿島コンビナート基本契約の改定であった。当社はすでに1980年秋から、優先塩素やエチレン価格決定方式などに関する基本契約の見直しを求めており、鹿島コンビナートでは1981年10月、参加企業各社で構成する「鹿島コンビナート再構築委員会」を設置して、この問題を論議していた。
しかし、各社の利害が相反することから、交渉は容易に進展しなかった。そこで小田切社長は、交渉の長期化も視野に入れて、主要金融機関への理解を求めるなど交渉支援の体制を整えた。金川事業本部長は、新たに練り上げた鹿島コンビナート基本契約改定案を携えて、関係各社に優先塩素の引き取り辞退を申し入れた。極めて困難な交渉であったが、場合によっては係争をも辞さない強い決意のもとで粘り強く交渉を重ねる当社の姿勢に、関係各社は次第に理解を示すようになり、契約改定作業の場が設けられることになった。
こうして1983年7月に成立した新契約では当社の主張が全面的に取り入れられ、長年の懸案であった優先塩素枠の廃止とエチレン価格決定方式の改定が実現した。 この契約改定作業とともに、本社では物流、販売の徹底した合理化に取り組んだ。鹿島工場でも世界でトップレベルの品質の達成と製造原価の低減を目指し、製造と研究が一体となって合理化を進めていた。これら一連の努力により、海外からの低廉な塩ビモノマー原料(二塩化エチレン=EDC)と塩ビモノマーの輸入に加えて、徹底したコスト削減を実現し、当社は他社に先駆けて国際市場での価格競争力を回復した。
1983年には中国向けを中心に輸出も積極的に行われるようになり、フル生産とフル販売を推進し、確固とした利益基盤をつくり、世界に通用する塩ビ事業に向かって大きな一歩を踏み出した。
一方、塩ビ業界では、1982年2月に不況カルテルの期限が切れたあとも、構造改善策の検討が進められていた。1982年には、販売面での過当競争の解消、国際競争力強化に向けた販売チャネルの集約化に向け、第一塩ビ販売、中央塩ビ販売、日本塩ビ販売、共同塩ビ販売の塩ビ共同販売会社4社が設立された。当社は旭硝子、化成ビニル両社とともに中央塩ビ販売に参加した。各共販会社は物流合理化、販売経費削減、グレードの統合、生産受委託の拡大などに取り組み、コスト削減を目指した。
また、1983年5月に公布された「特定産業構造改善臨時措置法(産構法)」によって塩ビ樹脂事業は特定不況業種の指定を受け、塩ビメーカー16社は協定を結んで、一部設備の廃棄または休止処分を実施することとなった。当社は、将来の事業展開を考慮して1984年2月から鹿島工場の重合器1基を休止とし、南陽工場の重合器2基を廃棄処分とした。
1982年7月に新体制で国内塩ビ事業の改革に着手した当初、金川事業本部長は3年間で赤字からの脱却を目指していたが、1983年6月に国内塩ビ事業は黒字に転じ、新体制発足後1年4ヵ月経過した第107期上期(1983年6~11月)決算で利益を計上した。その後、当社の収益を支える主力事業の一つに返り咲いた。

鹿島工場の塩ビモノマーバース

当時の鹿島コンビナートにおける塩ビ生産までの流れ
国内塩ビ事業の再構築を主導した小田切社長は、1988年に発行された『信越化学鹿島グループ20年の歩み』のなかで、「塩ビ事業再構築にあたって私の心を支えてくれたもの」という表題のもと、当時の取り組み内容と心境をつぶさに披瀝している。不退転の決意で塩ビ事業の再生に取り組んだ小田切社長自身の貴重な証言として、ここにその全文を紹介する。
「当時を振り返ってみますと、第1次オイルショックと直江津工場のプラント事故などの難局を切り抜けるため、昭和53年に身を切る思いで勇退者まで募って、血の滲む合理化を実施しました。多少目途が立ち始めていた昭和55年には、追い打ちをかけるように第2次オイルショックが起こりました。原燃料が暴騰し、資源国とのコスト格差が急激に拡大し、エネルギー多消費型産業、石油化学工業を中心に世界的な大不況に見舞われた時代でした。
当社におきましても、5工場中4工場が赤字となり、大変な経営難に直面いたしました。
なかでも鹿島工場の赤字は莫大で、シリコーンがいくら頑張っていても、このままでは当社全体の経営を危うくするレベルに達しており、この工場の立て直しが経営の最優先課題になっていました。
鹿島コンビナートは、昭和43年に発足した日本における最新鋭の国際規模の石油化学コンビナートで、立地条件、公害対策、港湾設備など、他に類を見ないほど優れており、かつ参加各企業の各事業も日本最強の事業集団でありました。
しかし、昭和43年に締結された企業間の契約は、『鹿島コンビナートのコストが、日本のみならず国際的に見ても最大の競争力を持ち続けうる』ことを根底においた『物の流れ中心』の内容と体制になっており、各企業の努力や市場原理がまったく働く余地のないものでしたが、原油価格の暴騰により、この根底が覆されたわけですから手の打ちようがありませんでした。
当社は、いわゆる『優先塩素』、『エチレン価格問題』など基本問題を抱え、他社とは比較にならない大きな皺寄せを受け、塩ビ事業は致命的な痛手を被ったのです。
この難局打開のため、社内に塩ビ再構築委員会をつくり、全社の関係者で塩ビ事業再建に関する基本問題を鋭意検討していただきましたが、その結果、昭和43年当時と状況の一変した現在、コンビナート契約を新しい事態に対応したものに改正することが不可欠であるとの結論に達し、コンビナートの関係各社にコンビナート契約の改定を繰り返し強く申し入れ、改定のためのテーブルに着くように要請し続けました。
しかし、石油化学全般が不況のさなかにあり、各社の利害が相反するため、遅々として進まず、『信越は身勝手すぎる。信越さえ契約を守れば何の問題もない』として日増しに関係各社の当社に対する感情は悪化し、当時は、関係各社の人々に会うことすら苦痛の日々が続きました。
このような状況下、私の心の支えとなり、私に勇気を与えてくれたものが、1社内でできるあらゆる血の滲むような合理化に黙々と取り組んでくれた、勤勉で誠実な皆さんがおられたこと、2当社の優秀な塩ビ製造技術は、海外事業本部の優れた営業力により、世界の強豪ライバルメーカー(当時のローヌプーラン社、ヒュルス社、BFグッドリッチ社など)を相手に次々と競争に打ち勝ち、塩ビ製造設備の技術輸出を成功させ、第1次オイルショック以後の経営難を救うべく大きな貢献をしていたこと、3シンテックが創業(昭和49年)以来、競争の激しい米国において、あらゆる苦難を乗り越えて立派に経営を続けてきた、その当社経営者の経営力でした。
本来のコンビナート精神は、参加各企業が、それぞれ経営努力し、その努力が、その企業に繁栄をもたらすとともに、コンビナート全体の繁栄をも、もたらすものでなくてはなりません。
したがって塩ビ再構築委員会は、『個別企業の努力の限界を越えた不平等を発生させた新事態に対して、早急に手を打ち、厳しい経済環境下で生き残りをかけて必死に努力している他コンビナートに打ち勝つことこそ大切である』と訴え、やれるすべての交渉を辛抱強く行ったのですが、膠着状態を脱するには至りませんでした。
このような経緯から、見方を変えて、国際感覚をもって交渉にあたる以外に手がないと考え、私は、シンテックの経営と海外事業本部長として繁忙極まる金川(当時専務取締役)さんに無理を承知で、当社の塩ビ事業を担当してもらうことを決断したのです。
金川さんは、私が不退転の決意で臨んでいることを十分理解され、連日、鋭意交渉にあたってくれましたが、当社に対する非難の声が強まるだけで、進展は見られず、暗礁に乗り上げた状態が続きました。
この間に、これまで進めてきた交渉方法では解決できないと判断し、最悪の事態に対する準備をも始めてもらいました。
一方、私は、当社主要金融機関に対し、事情を説明し、当社の行動について理解をいただくとともに、長期戦に備え、支援をお願いして回りました。
このような舞台裏の準備のもとに、十分に練り上げた契約改定要請の文書を関係各社に届けるとともに、鹿島電解よりの優先塩素引き取り辞退の行動に出たのです。
関係各社は、当社の並々ならぬ決意と万全の体制を察知してか、また、三菱油化の吉田正樹社長および亀井俊彦常務という大層よき理解者を得たこともあって、当社の主張に耳を貸していただけるようになりました。ようやく旧契約に基づく権利、義務をいったん棚上げにし、新契約作成のテーブルに着いてもらうことができたのです。
このような経緯で、昭和58年にできあがった新契約は、当社の主張が取り入れられ、市場原理が働き、各企業の努力がそのままその企業に利益をもたらすとともに、コンビナート全体の発展にも繋がる本来のコンビナート精神が発揮できる形となりました。その結果、今日の鹿島コンビナートの繁栄となって関係各位に皆、喜んでいただいており、われわれの主張と新契約が正しかったことを証明していると思います。
冒頭に申し上げましたように、鹿島コンビナートは、もともと立地条件、各種施設に恵まれているうえ、その後の関係各社のご努力により、ユーティリティコストの低減、原料コストの低減が進み、各種施設もいっそう充実いたしましたので、新生鹿島の国際競争力は、大変向上したと思います。
当社におきましても、南陽工場の塩ビプラントの鹿島への集約、原料対策、研究所の充実などに大きな投資を行って、国際競争力強化に不断の努力を行っておりますし、米国のシンテックも飛躍的な発展を続けておりますので、当社塩ビ事業は、国際的にも最強の立場にあると考えます。
たしかに塩ビ事業は、国際市況に大きく左右される難しい事業だと思いますが、世界トップレベルの技術力、生産設備、営業力、経営陣と、この事業の再建を、先見性と周到な準備のもとに勇敢に立ち向かわれた金川さんとともに成し遂げた、苦しみを知り尽くした皆さんで運営にあたれば、いかなる苦難をも乗り越えて、ますます発展できると確信いたします」。
米国で塩ビの生産・販売に取り組むシンテックは、1976年に当社の全額出資子会社となって以降、「全生産量を売り切る」という金川社長の方針のもとで積極的な販路の拡大に努め、米国内外でシェアを拡大した。
これに対応した設備増強も1978年、1981年、1984年と3年刻みの急ピッチで行われた。しかも、その間もフル生産、フル販売という方針は堅持され、北米のみならず中南米、欧州、中近東と、全世界で市場拡大に挑戦した。
シンテックの成長を支えたのが、先に挙げた販売重視、少数精鋭を基本とした徹底した合理化、ダウケミカルとの良好な関係に支えられた合理的な価格による安定した原料確保であった。好業績を背景にシンテックは財務体質を強化した。また、1985年8月には米国で硬質用塩ビコンパウンドなどを生産する「K-Bin社」を設立するなど、投資にも力を注いだ。
当社の海外事業本部は1984年9月に国際事業本部に改編され、技術・プラント輸出に加え、輸入および一部国内事業も手がけるようになった。この間も大型塩ビ重合技術・プラント輸出は増加し、ノルウェー、オランダなどへの技術輸出契約を締結した。

磯部工場のメチルシラン合成設備「MR-8」
1970年代後半、当社の利益を支えていたのはシリコーン事業であったが、米国での競争が激化するなど国際市場は大きく変化しようとしていた。このような環境変化を受け、利益率の維持・強化に向けて、1980年1月に「長期計画検討チーム」がシリコーン事業本部に設置された。同チームは1985年度に売上高を倍増させるという基本目標を掲げた。
売上げの高い伸びを支えるには、シリコーンモノマーから製品に至る生産能力を早急に増強しなければならなかったが、シリコーンの生産拠点の磯部工場では増設に限界があることが明らかで、立地を選定して新工場を建設することが必要だった。
検討を重ねた結果、磯部をシリコーンの総合工場として再開発するとともに、1981年10月、磯部工場に近い郷原(安中市)の安中工業団地内に用地を購入し、シリコーンRTVゴムを中心とした2次製品工場を設置することを決定した。
また、シリコーンモノマー生産では、従来の攪拌流動床法に代わる流動床法を採用し、コンピュータ制御で運転管理を行う大型設備(MR-8)が1982年8月に完成し、大幅な生産能力増強とコストダウンを実現した。
その後も競争力の強化に向けて増設が続けられ、磯部工場に次ぐシリコーンモノマー第2プラントの建設計画が本格化した。その頃、磯部工場に近い松井田地区(群馬県碓氷郡松井田町、現・安中市)に群馬県が工業団地を開発しており、同県からの要望もあって1985年頃から松井田での建設計画が検討された。
ユーティリティ多消費型のシリコーンモノマー工場を、水資源の乏しい内陸に集中することの是非が問題となったが、既存のプロセスでユーティリティ原単位を引き下げるなどの工程改善によって条件が満たされることが確認された。そして1987年3月に、松井田工業団地を一括購入した。
また、1984年以降、直江津工場の原料立地を生かして、CFシランやレジンなどを磯部工場から直江津工場に移管して集中生産することが進められた。
この間、新製品の開発も積極的に進められ、品種数は1980年代には約3500種と急速に増加した。この背景には、化粧品のように新製品が相次いで開発された結果、それぞれの製品に合うようにシリコーンも改良が求められたことや、電子材料のように高集積化や高機能化にともなって、シリコーンに要求される特性が年々厳しくなったことが挙げられる。
このような既存製品の高機能化とともに、一般的な製法である「直接法」では製造できない特殊な高機能シランの開発など、従来にない特色を備えた新製品の開発や新規用途開発も活発に進められた。加えて1980年代末にかけて、最終製品のライフサイクルが著しく短くなった。シリコーンも新製品への交代までの期間がますます短縮された。
一方、コモディティ製品となったシーラントの販売促進に向けて、1986年3月に「信越シーラント株式会社」を設立し、新規需要家の開拓をはじめ販売力の強化を図った。
このように営業、製造、研究の強化を継続的に進め、徹底したコストダウンと新製品による市場開拓を両輪として競争力を高めていった。
また、国際展開も視野に入れ、1970年代後半から1980年代前半にかけて、ロンドン(1978年)、ソウル(1979年)、台北(1979年)、ロサンゼルス(1982年)、シンガポール(1984年)と次々に駐在員事務所を設置した。
さらに1985年12月には、米国カリフォルニア州ロサンゼルスに販売会社「シンエツシリコーンズオブアメリカ社」を設立、1986年8月には生産・販売会社「韓国信越シリコーン株式会社」を設立した。なお、ロンドン駐在員事務所は1984年8月に閉鎖され、その後、欧州には1988年1月にアムステルダム駐在員事務所を設置した。

完成した信越半導体白河工場
1979年1月、当社は信越半導体の共同出資会社であったダウコーニングから合弁解消の申し入れを受け、同年6月に12年に及ぶ合弁関係を解消することになった。信越半導体は当社の全額出資子会社となり、これまでダウコーニングが担当していた欧米地域への輸出も直接手がける必要が生じた。
その結果、信越半導体は自らの手で国際市場を切り開いていくこととなり、1979年3月に信越半導体の全額出資子会社の「SEHアメリカ社」を、同年9月にはフランスに「SEHヨーロッパ社」を相次いで設立した。
さらに信越半導体は、田村喜八社長のもとで1979年7月に長期計画を策定し、米国でのCZ法単結晶およびPWの生産拠点設置などを決定した。計画どおりSEHアメリカは1981年2月にワシントン州バンクーバーでパイロットプラントを稼働させ、1984年2月には本プラントが操業を開始した。
また欧州では、1984年5月に事業拠点を英国スコットランドに移し「SEHヨーロッパ(U.K.)社」を設立、販売とともにウエハー加工を行うことになった。さらにアジアではSEHマレーシアが1981年2月に第2工場を完成させ、1983年には第1工場が6インチウエハーに対応するため全面的に設備を刷新した。
1980年代前半は情報化、効率化、省エネルギー化などを背景に電子機器の需要が高まったことに加え、TVゲーム、家庭用VTR、パソコンの普及などが続き、半導体市場が活況を呈した時期であった。
急増する半導体需要に対応するため、信越半導体は国内の生産能力の増強も図った。同社は福島県の白河(福島県西白河郡西郷村)に、単結晶からウエハー加工までの一貫工場を設置することを決定し、1983年10月、「白河工場建設本部」を設置した。第1段階として単結晶
月産15t、ウエハー50万枚の能力を備えた同工場は1984年10月に完成し、12月に操業を開始した。
また研究開発体制の拡充に向け、1981年には磯部工場開発部を改組して半導体研究所を発足させ、品質要求の高度化、大口径化への対応、新製品の開発に取り組んだ。
1985年に入ると半導体市場は急速に冷え込み、いわゆる「シリコンサイクル」の下降局面に入った。これに対応するため、組織と人員の効率化、原単位の向上など合理化を積極的に進めたが、同社の収益は白河工場の大規模な投資負担もあって大幅な減益となった。
さらに、単結晶の大口径化やウエハー加工技術の高度化などによりシリコンサイクルの克服に向けて奮闘しているさなかの1986年4月12日、田村信越半導体社長(当社副社長)が急逝するという不慮の事態に見舞われた。信越半導体は、この不況期の苦難の時代にも、大口径化など顧客の要請への対応を続けた。

フェロモン交信攪乱剤「ハマキコン」
磯部のシリコーン電子材料技術研究所では1970年代半ばから合成石英の独自製法の開発を進めてきたが、1979年にその事業化が決まり、同年10月には、直江津の合成技術研究所でインゴットとフォトマスク基板の生産を本格的に開始した。この合成石英フォトマスク基板をIC用として最初に採用したのがNECであり、その後、他の日本のICメーカーが順次これを採用した。このことが、日本が米国とのIC開発競争に勝つ端緒となった。1979年から1985年まで、直江津工場では増設を続けた。このような活況を背景に1981年2月には精密材料部が設置され、リチウムタンタレートなどの酸化物単結晶も手がけていくようになった。
レア・アース事業では、主力製品となっていた酸化イットリウムが、1980年代に入って高演色蛍光灯に用いられるようになり、飛躍的に需要が高まった。
また、1978年11月には独自技術による溶媒抽出法(SX法)プラントを立ち上げ、ガドリニウム、サマリウム、ユウロピウムの高効率生産を実現していた。1983年以降は酸化サマリウムの需要が急激に伸び、酸化イットリウムを上回るまでになった。こうした状況もあり、国内レア・アース市場には国内外から新規参入が相次ぎ、競争が激化した。このため当社は、ネオジム、テルビウムといった新製品の開発を目指した。
1976年6月から本格生産を始めたレア・アースマグネットは、小型で強い磁力を発揮できることから、電子機器などのいわゆる軽薄短小化のトレンドに適合する製品となり、売上げは着実に伸びた。これは当社のサマリウム・コバルト磁石が優れた磁気特性で高い評価を得たこと、さらにコストダウンを図るために、サマリウム・コバルト磁石のなかのサマリウムの一部をセリウムに置き換えた新製品を開発するなど、積極的に需要を開拓した結果であった。
このような需要拡大に対応するため、1982年3月には武生に第2工場を建設し、サマリウム・コバルト磁石の増産を進めた。その後、コンピュータのハードディスクドライブ(HDD)のヘッドの駆動に使われるボイスコイルモータ(VCM)の組み立てにも取り組み、売上げは急速に拡大した。VCMの組み立て体制は、1984年5月の朝日分工場(福井県丹生郡越前町)の完成、1985年1月の「株式会社信越マグネット」の設立によって確立された。
この間、サマリウム・コバルト磁石より強力な磁気特性を有するネオジム磁石が登場したため、当社は1986年4月にその特許実施権を取得し、ただちに生産に着手した。このネオジム磁石が、1990年代以降のマグネット事業の主役となっていった。
一方、セルロース誘導体は1980年代に入って医薬用の新製品開発が進み、充実した製品群を擁して急速に売上げを伸ばした。建材用でも1980年代後半にかけて住宅建設がブームとなるなかで需要が急増した。その他、セラミックス用バインダーや感熱紙用など工業用途でもセルロース誘導体の需要は高まった。こうしてセルロース事業は高成長を続けた。
さらに有機合成事業では、農業害虫の防除剤であるフェロモン交信攪乱剤と、合成香料の一つである青葉アルコールを開発し、事業化した。環境への関心が高まるなか、大量の殺虫剤散布を行わずに害虫を防除するフェロモン交信攪乱剤は次第に注目を集めて、1987年には米国農務省がその効果を高く評価した。当社では、1985年3月に第1号製品として「ハマキコン」の出荷を開始、これが同年度の日本経済新聞社主催「日経・年間優秀製品賞」を受賞した。

ロゴの変遷
1980年代の当社は、不況と経営危機を克服して、新たな成長の基盤を確保していく時期を迎えていた。小田切社長は1978年10月に「新商品開発委員会」を発足させ、営業、製造、研究ともに全社的なコミュニケーションの確立に取り組んだ。
直江津工場では自主的な再建に向けて1976年1月から「PAIR-N」をスタートさせ、職場ごとに目標と実行計画を掲げて全員が改革に参加する小集団活動を展開した。このような小集団活動は、1980年代に入ると全工場に拡大し、TQCの推進役を果たした。
1970年代の経営危機を乗り切り、新たな発展の目途がついた1983年8月に、小田切社長は経営者の若返りを決断して社長を退任して会長となり、新社長に小坂雄太郎専務、副社長に田村、金川両専務がそれぞれ就任した。第107期(1984年5月期)には初めて売上高(単独ベース)が2000億円を突破した。
こうしたなかで1986年10月1日、当社は創立60周年記念日を迎えた。これを機にCI(コーポレート・アイデンティティ)が導入され、1988年10月に当社はシンボルマークを一新した。1980年代後半は、激しく変化する社会環境に柔軟に対応できる体制の確立と、国際競争力の強化を大きな経営課題として、よりいっそうの成長を目指した時代であった。そしてこの間の順調な業績拡大を背景に、積極的な設備投資が進められた。

田村喜八副社長
1986年4月12日、出張先の韓国で急逝した田村喜八副社長は、シリコーン、半導体シリコン、合成石英といった当社のケイ素関連事業の「育ての親」であった。ここで田村副社長の事跡を簡単に振り返る。
田村副社長は1916年、群馬県安中市に生まれ、1941年に北海道帝国大学理学部を卒業後、海軍技術大尉となり終戦を迎えた。1948年に当社に入社し、主にシリコーンの研究開発に従事し、1959年に珪素樹脂部長に就任した。
1964年に取締役となり、シリコーンおよび半導体シリコンの開発責任者となった。その後、常務、専務を経て、1983年に代表取締役副社長に就任し、シリコーン、半導体シリコン、電子材料事業の責任者となった。また、1972年には信越石英と信越半導体の社長に就任し、陣頭に立って当社グループの事業育成にあたった。
シリコーン事業では草創期から中心的役割を務め、半導体事業では国内外の拠点づくりを主導するなど精力的な活動を重ねた。さらに信越石英の設立に際しては、共同出資会社であるドイツのヘレウスクワルツグラス社との交渉にあたり、初代社長に就任した。
技術者、研究者として出発した田村副社長は、やがて優れた執行能力と指導力を生かして数々の事業の責任者となった。田村副社長の功績に対しては、正五位勲三等瑞宝章が追贈された。
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