

創業からの60年間の歴史
1926-1986
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完成間近の直江津工場
当社の前身である「信越窒素肥料株式会社」は、1926(大正15)年9月16日、信濃電気60%、日本窒素肥料(現・チッソ)40%の共同出資により設立された。
信濃電気は1903(明治36)年5月、“須坂の製糸王”(須坂は現在の長野県須坂市)と謳われた越壽三郎が中心になって設立した電力会社で、長野県で発電・送電事業と余剰電力を利用したカーバイドの生産・販売を行っていた。日本窒素肥料は、わが国で初めてカーバイドの国産化を成功させた藤山常一と、水力発電事業に取り組んでいた野口遵が、1908年に起こしたカーバイドや石灰窒素などの生産・販売会社であった。
電力業界では、大正期に入ると長距離送電技術の確立を背景に全国で再編が進み、電力会社の統合や吸収合併が相次いでいた。このような事業環境のなかで活路を探る信濃電気は、自社のカーバイドから石灰窒素を生産することを計画した。しかし、そのための技術を持たない同社は、カーバイドを扱う商社の斡旋により、日本窒素肥料と提携した。新設された信越窒素肥料は資本金500万円、本社所在地は長野県長野市大字吉田の信濃電気吉田営業所とし、社長には越壽三郎が就任した。工場の建設候補地には新潟県の直江津(現・上越市)が挙げられた。
直江津が工場の候補地となったのは、26万m²に及ぶ日本石油直江津製油所の広大な跡地があったからである。ほかにも原料、労働力、交通、電力供給といった各方面から検討を進めた結果、信越窒素肥料はこの製油所跡地を購入し、1926年11月に工場建設を開始した。これが現在の直江津工場のルーツである。
なお、原料となる石灰石の安定確保を図るため、信越窒素肥料は1927(昭和2)年4月から新潟県の親不知(現・糸魚川市)に採掘地を開発した。
約1年にわたる工事の末に直江津工場は完成した。電気炉6基、窒化炉24基、カーバイドタンク6基、電極設備などを備えた同工場は、1927年10月にカーバイド工場の操業を開始し、翌月には石灰窒素工場が稼働した。
ところが、1927年3月に始まった金融恐慌と、それに端を発した農村不況の進行で肥料価格は下落、石灰窒素事業は販売不振と価格下落という厳しい状況に追い込まれた。この間も、信越窒素肥料は年間2万5000~3万tの石灰窒素生産を継続しつつ、化成肥料など新製品の発売、石灰窒素の輸出といった経営努力を続けた。しかし、1930年1月の金輸出解禁の影響で石灰窒素の価格は暴落し、業績は悪化の一途をたどった。
こうした状況下で、越社長は、本業の製糸事業も不振に陥り、また高齢と病を得たこともあって、信越窒素肥料と信濃電気の経営から退くことを決意、小坂順造に両社の経営立て直しを託して、1930年6月までに両社社長を辞任した。小坂は長野電燈の前社長であり、当時、長野県選出の衆議院議員で、拓務政務次官を務めていた。
長野電燈は1897年5月、小坂順造の父・小坂善之助が設立した電力会社で、翌年には長野県で初の発電を行い、長野市内の電灯用に送電を開始した。信濃電気と長野電燈は当初、長野県の電力市場において競争関係にあったが、1924年12月には共同出資で「梓川電力株式会社」を設立するなど協調関係が確立されていた。小坂順造は1923年9月に長野電燈の社長に就任し、1929年7月に濱口雄幸内閣の拓務政務次官に就任するまでその職にあった。
信越窒素肥料の再建を託された小坂は、すぐさま友人で富士電機製造(現・富士電機)社長の名取和作に、信越窒素肥料の社長就任を要請した。
1930年7月に社長に就任した名取は、同年11月に石灰窒素の4割操業短縮と人員整理を決定。翌年にかけて直江津工場の操業短縮、親不知の石灰石採掘休止、3次にわたる人員整理を実施した。
翌1931年4月の濱口内閣総辞職により、小坂は拓務政務次官を辞任し、同年5月に小坂自身が信越窒素肥料の社長に就任した。このとき同社は本社を東京府東京市麹町区丸ノ内(現・東京都千代田区丸の内)の丸ビルに移転した。
当時の石灰窒素業界は不振を極めており、信越窒素肥料も借入金や未払金など巨額の債務を抱えていた。小坂社長は経営を存続させるため、直江津工場の一時生産中止とほぼ全従業員の解雇の決断を余儀なくされ、1931年12月にこれを実施した。その後1937年まで、信越窒素肥料は休業状態に入った。
この間、直江津工場は理研マグネシウム、日本曹達、電気化学工業の3社に分割貸与された。1932年10月には信越窒素肥料に直江津工場管理所が設置され、上記の3社を同管理所に所属するマグネシウム部、合金鉄部、肥料部とする形で工場は運営された。
わが国では1931年9月に満州事変が勃発し、戦時色が日増しに強まった。信越窒素肥料の親会社の一つ、日本窒素肥料は、新興コンツェルンとして急成長を遂げていた。
同社は肥料事業では硫安に注力していたため、構造的な不況下にあった石灰窒素に対しては事業継続の意欲がなく、信濃電気に信越窒素肥料の全株式の売却を申し出ていた。これに応じて1937年6月、信越窒素肥料は自社で日本窒素肥料保有の株式4万株を買い入れ消却した。また、日本窒素肥料出身の役員は全員退任した。
一方、1937年3月には、信濃電気と長野電燈が対等合併して、新たに「長野電気株式会社」が発足し、長野電気が信越窒素肥料の親会社となった。信濃電気が保有していた信越窒素肥料の株式6万株については、これを1万2000株に減資して、同時に7万4000株の増資を行い、この増資分の全額を長野電気が引き受けた。
このような経営体制の再構築を経て、信越窒素肥料は累積損失の解消、借入金の返済に目途を立て、操業再開にこぎつけた。工場を貸与していた各社とも円滑な工場返還の合意を取り付け、1937年10月1日、信越窒素肥料は直江津工場の自営再開を果たした。翌年から当社は、この日を創立記念日として、幾多の困難を経て実現した事業の自営再開の記憶を長く歴史にとどめている。

磯部金属試験所 第1工場の上棟式
1937年の盧溝橋事件に端を発した日中戦争は長期化の様相を呈し、国内経済は各分野で国家統制の度合いを強めた。肥料生産については、1936年に重要肥料業統制法が成立しており、肥料製造業組合が販売価格、取引条件を一括して決定することになった。
そのようななかで自営を再開した信越窒素肥料は、再開直後の石灰窒素の販売が好調に推移し、第23期決算(1937年6月1日~11月30日)では次期繰越利益を計上し、第24期決算(1937年12月1日~1938年5月31日)では初の配当を実施した。
また、新規事業の開拓も進められ、合金鉄生産の拡大が図られた。1939年に日本曹達から返還された電炉を合金鉄の生産に充て、ケイ素鉄、金属ケイ素、マンガン鉄の生産に取り組むとともに、鉄鋼の脱酸脱硫を目的としたカルシウムシリコンの生産にも成功した。
その前年1938年の6月から、新規事業の一つとして、直江津工場では金属マグネシウムの試験生産を開始していた。金属マグネシウムは、当時、航空機用ジュラルミンの配合原料として大きな需要があった。直江津工場は理研マグネシウム時代の経験を生かしつつ、既存の特許に抵触しない信越方式の開発を進め、生産性の高い製法を確立した。本格生産に入ったのは1939年3月のことである。
さらに、電炉を使った高純度の金属マンガンの生産にも取り組んだ。金属マンガンは金属マグネシウムとともに、航空機用ジュラルミンの配合原料であった。しかし当時は輸入に頼っていたため、重要軍需物資として国産化が強く求められていた。
信越窒素肥料では、これを事業化するにあたり、長野電気の送電地域内でもっとも東京に近い群馬県南部に工場を新設することを決定した。複数の候補地から選定されたのが群馬県碓氷郡磯部町(現・安中市)で、1938年12月に磯部金属試験所を開設した。これが現在の群馬事業所磯部工場の始まりである。
1939年1月には第1工場が操業を開始し、金属マンガンの需要の伸びに対応するため建設した第2工場は同年9月に完成。さらに1941年11月には第3工場が完成した。
1939年6月には金属ケイ素用の電炉の設置を決定し、直江津工場でその生産に着手した。金属ケイ素の生産にあたっては、高品質のケイ石を確保するため、国内の優良な採石所の調査を行った。これにより、良質のケイ石が確保できたため、純度の高い金属ケイ素の生産が可能になった。

戦時中の従業員手帳
信越窒素肥料が1939年以降、新たに生産・販売を開始した金属マグネシウム、合金鉄などは、季節による需要の変動を受けず、しかも軍需物資でもあったため安定した需要があった。従来生産していたカーバイド、石灰窒素といった肥料関連製品が季節変動を被っていたのに対し、これらの新規製品は経営の安定化に大きく寄与した。
信越窒素肥料の売上げ全体に占める新規製品の比率は急速に伸び、このような事業の実態から見ると「窒素肥料」の名はふさわしいものではなくなりつつあった。売上高も年間400万円に達し、化学会社としてみれば中堅クラスの水準にあった。これらの事情を勘案し1940年3月に開催された臨時株主総会で、信越窒素肥料は社名を「信越化学工業株式会社」と改めて、新たなスタートを切った。
同時に、この株主総会では資本金を1000万円に増資することも決議された。増資分は自家発電所および受電設備の建設に充てることとし、生産増強はもとより、生産に不可欠な電力の安定受給を目指した。
電力の安定受給は信越窒素肥料の自営再開時からの重要な課題であり、再開1年前の1936年10月には自営再開に備えて北野川、釜川(ともに長野県の志久見川水系)の水利権を取得し、1939年10月に志久見川第1・第2発電所の 着工を計画していた。
しかし、この頃になると戦時色はさらに強まり、生産諸分野から労働、国民生活に至るまで国家統制下に組み込む、いわゆる総動員体制が進行していた。電力はエネルギーの主軸としてとりわけ重視され、1938年4月には電力管理法、日本発送電株式会社法が公布されて電力の国家管理が強化された。
志久見川発電所についても、発電した電力はいったん日本発送電に売り渡し、そこから信越窒素肥料が買い戻すことが求められた。1940年11月、このような状況のもとで、志久見川第2発電所が完成、翌1941年10月に同第1発電所が完成した。
電力事業の国家統制は次第に強化され、既設の火力発電所、送電設備、一部の水力発電所は、その設備を日本発送電に現物出資の形で譲り渡すことになった。また、1941年8月には配電統制令によって、配電事業は全国9つの配電会社に統合された。
このような電力統制強化のなかでは、長野電気も事業の継続を断念せざるをえず、全設備を日本発送電および中部配電に譲渡して、1942年5月に解散した。さらに1944年12月には、当社の志久見川発電所も日本発送電への譲渡を余儀なくされ、ここに当社および関係会社による電力事業の歴史は幕を下ろした。
直江津工場で生産していたマグネシウムは、生産技術、製品の品質ともに需要家から高い評価を受けていた。このため、軍当局から朝鮮における事業化の要請を受け、1940年7月の役員会で事業化を決定、1941年1月に「朝鮮重化学工業株式会社」を設立した。
しかし、1941年12月に太平洋戦争が始まると資材や労働力の確保が思うにまかせず、工場の建設はなかなか進まなかった。また、試運転でもトラブルが続発し、実際に操業を開始したのは1942年10月であった。
事業化を急ぐ軍当局は三菱系企業に事業への参画を求めた。その結果、朝鮮重化学工業の経営は1942年12月に三菱系の日本化成工業に移管され、社名も三菱マグネシウム工業に変更された。朝鮮における金属マグネシウム事業には当初から消極的であった当社は、こうした経緯を経て同事業から完全に手を引いた。
当社の国内事業はカーバイド、石灰窒素、金属マンガン、金属マグネシウム、金属ケイ素、ケイ素鉄を主力製品として、太平洋戦争開戦以後も順調に業績を伸ばした。なかでも金属マンガン以下の製品は軍需物資として増産が求められ、これらの製品の伸びが収益拡大に大きく寄与した。
その一方で生産部門への国家統制は強化され、金属マンガンを生産する磯部金属試験所は1941年1月に陸軍の監督工場に指定され、工場の経営に関して、ことごとく軍当局の干渉を受けた。直江津工場でも生産計画への軍当局の統制が強まった。

大同化学工業と合併当時の武生工場の遠景

軍需大臣による合併令書
戦時下で増大し続ける当社主力製品の需要に対応し、直江津工場では、1942年、1943年と生産設備の増強が行われ、磯部金属試験所でも1943年に増設が行われた。
1943年10月に軍需会社法が公布されると、当社も翌1944年1月、4月の2度にわたり軍需会社指定を受け、直江津、磯部の全部門とも軍需工場の指定を受けた。生産に関する軍当局からの干渉は強化されたが、そのなかにあっても当社は、自主的に増産計画を立てて当局に具申するなど経営努力を続けた。
一方、ケイ素鉄の増産を求める軍需省は、福井県武生町(現・越前市)でケイ素鉄を生産していた大同化学工業と当社の合併を命じた。当社は1945年5月、大同化学工業を吸収して、ここに武生工場が誕生した。
大同化学工業は1917年に福井県出身の山本条太郎によって設立され、発電、カーバイド、石灰窒素、ケイ素鉄などの生産を手がけていた。当初、軍需省は同社にケイ素鉄の増産を命じたが、設備が老朽化しており、増産に必要な原料、労働力確保も困難であった。軍需省は当社に同社への協力を要請し、最終的には吸収合併を命じた。
戦火が拡大し統制が強化されるとともに、海外からの原料調達も相次いで途絶し、わが国の総力戦体制は自壊寸前の状況にあった。しかし、幸いにも直江津工場、磯部金属試験所、武生工場は空襲による被害を免れ、1945年に入っても主要製品は前年の水準を維持して順調に生産を継続した。磯部金属試験所では超低炭素マンガン鉄の生産に成功し、1945年6月以降生産量を増加させるなど、新たな成果さえ生まれていた。
このようななかで1945年8月15日、終戦を迎えた。これから日本はどうなっていくのか、国民が不安に打ちひしがれているとき、小坂社長は当社の平和産業への転換をいち早く各工場に指示した。
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