

世界市場への新たな布石
2000-2003
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シンテックのアディス工場
20世紀最後の年を迎えた2000(平成12)年1月、国内経済は情報技術関連の設備投資や公共投資の増加により、景気が回復したかに見えたが、企業業績には業種や企業によってばらつきがあり、個人消費も所得の伸び悩みや雇用不安により足踏み状態が続いていた。
当社は第123期(2000年3月期)の第3四半期を終えたところであった。1999年12月期に最高益を更新したシンテック、当社の光ファイバー用プリフォームやエキシマレーザー用フォトレジスト、LTなどの事業の成長、G委員会による製造部門の生産性向上などを背景に、連結当期純利益は5期連続で最高益更新となる見込みだった。
金川社長は経営陣を前に、新年の抱負を次のように述べた。
「経営目標で定めた連結当期純利益1000億円は、世界で優良企業として認められる最低水準である。これを達成するための具体的な時期や内容を、各事業部や関連会社とともに作成したい。ただし机上の計画ではなく、具体的な実行案を作成したい」。
その目標達成に向けて、拡大成長に向けた設備投資を国内外で積極的に進めた。2000年には相次いで大型投資計画の対外発表を行ったが、その口火を切ったのが7月に発表した300mmウエハーの量産化計画であった。1999年からシリコンサイクルは需要拡大期に入り、8インチウエハーの販売が伸びていた。信越半導体は1997年以降の厳しい時期に社内改革を進め、企業体質の強化に取り組んだが、この取り組みが功を奏し、市場環境が好転すると業績は急速に回復に向かった。
この時期を逃さず、いち早く次世代への対応を図り、今後の優位性を確保することが半導体シリコン事業の安定成長にとって不可欠であった。そのため、300mmウエハーの量産化を決定し、単結晶引き上げからウエハー加工までの一貫生産体制を完成する計画を発表した。このとき、すでに信越半導体白河工場では、300mm単結晶引き上げ棟、300mmウエハー加工棟とも建屋は完成しており、設備の導入が始まっていた。
この新建屋では月産30万枚までの生産が可能であり、第1段階として月産10万枚の設備を導入する計画であった。並行して信越半導体磯部工場では、300mmエピタキシャルウエハー(EPW)の生産設備を設置することになった。投資額700億円のこの設備投資計画の発表によって、当社グループは300mmウエハー事業への本格的進出に、どこよりも早く名乗りを上げた。
2000年8月には光ファイバー用プリフォームの生産増強に向け、新工場を建設する計画を発表した。第3章第Ⅲ節で紹介したように、プリフォーム事業は需要の急拡大に対応するために、従来の松井田工場に加え、新たな生産拠点の建設が課題となっていたが、これを鹿島に建設することとした。
新工場は鹿島工場近隣に購入した工業用地に建設され、2001年10月に完成した。その生産能力は光ファイバー換算で年産1200万kmであった。この結果、松井田工場との2拠点体制によるプリフォーム生産能力は合計で2400万kmと従来の2倍になった。
さらに2000年10月、GEと東南アジアに合弁会社を設立し、シリコーンモノマー生産工場を建設する計画を発表した。シロキサン換算で年産7万tと世界最大級の生産能力を持つシリコーンモノマー工場であった。2001年1月にGEとの間でタイのラヨン県に工場を建設することで最終合意に達し、2月に「アジアシリコーンズモノマー社」を同地に設立した。出資比率は当社50%、GE側50%(GE25.5%、東芝24.5%)であった。
塩ビ事業では2000年1月、オランダでシンエツPVCがスタートを切った。これは第3章第Ⅲ節で触れたとおり、ロビンの塩ビ事業買収にともない設立した新会社である。2000年12月には、シンテックが米国ルイジアナ州で建設を進めてきたアディス工場の第1期分が完成し、操業を開始した。同工場は年産59万tの生産能力を予定しており、第1期分は年産30万tであった。2001年11月には第2期工事が完成した。
これにより、シンテックの生産能力は年産204万tとなり、全米第1位の塩ビメーカーとしての地位を確立した。同時に、当社グループの生産能力も年産319万tに達し、2位以下を引き離して、世界最大の塩ビメーカーとしての地位をさらに強固なものとした。
2003年10月には、スイスの化学メーカーのクラリアント社との間で、同社のセルロース部門を買収する交渉がまとまり、契約に調印し、11月に対外発表した。
当社ではセルロース事業の成長にともない、1990年代後半から第2の生産拠点づくりが課題となっており、その迅速な実現のためにM&Aも視野に入れて検討していた。このM&Aによってセルロース事業で日本と欧州の2拠点体制を築いて、欧州市場への拡大を目指した。
こうして各事業の基盤を強化したが、いずれの事業においても市場の変化が一段と加速しており、迅速な対応で成長機会を捉えることが不可欠であった。それぞれの事業の取り組みについては、本章各節で詳述する。
また、世界市場はこの間も激しく変化し続けたが、なかでも中国は高度経済成長を続けており、その台頭には目を見張るものがあった。2001年には、WTO(世界貿易機関)加盟に続き北京オリンピックの2008年開催も決定し、欧米および日本の有力企業は競って中国に進出した。人口約13億人という巨大市場におけるシェア確保、原料や労働力など豊富な経営資源の活用によって、世界市場における優位性を確保することが大きな狙いであった。
当社は従来、カントリーリスクの回避という観点から、製品の輸出や小規模な投資に限定して中国での事業を進めてきた。しかし中国をめぐる経済情勢の変化を踏まえ、2002年1月、金川社長は本社年賀式において、中国への投資について、従来認めてきた小規模なものに加えて、「知的所有権ほかに注意を十分払いつつ、中規模なものまでの投資を大いに進めていきたい」と述べた。
◆Zテーマなど新規事業へ投資
Zテーマでは、1990年代後半にKrFエキシマレーザー用フォトレジスト、液状フッ素エラストマーなどが量産に入った。なかでもKrFエキシマレーザー用フォトレジストは、市場参入が最後発だったにもかかわらず、世界市場においてトップシェアを獲得するという好業績を上げた。2000年9月には、その迅速な事業化の功績に対して、KrFエキシマレーザー用フォトレジスト事業に関わった研究、製造、営業の各部門の功労者への社長特別表彰が行われた。
Zテーマに続く新たな事業育成に向けた「ニューZ委員会」も2000年には軌道に乗った。同委員会では、Z委員会での経験を踏まえ、「ニューZテーマ」の選定にあたっては多数決ではなく、委員長である金川社長が責任をもって最終決定し、事業化に向けて指揮を執ることとした。そして、研究段階は研究者に任せるが、市場動向の把握や価格の決定など、経営力を要する事業化の段階では金川社長も積極的に参画して、その成功を期した。
また、ベンチャーキャピタルへの投資も行った。これは投資活動を通して得られるベンチャー企業の最先端技術の情報が、当社の研究開発に有益であるという観点から実施されたものであった。1999年10月、当社は日本ベンチャーキャピタルのファンド「NVCC2号投資事業組合」に出資した。同社は次世代を担う成長企業に出資する目的で、1996年2月に設立された会社である。金川社長は同社の非常勤取締役の一人であり、2000年3月には、当社は同社の株式400株を取得した。さらに2001年1月に「NVCC3号投資事業組合」、2002年11月に「NVCC4号投資事業組合」への出資を行った。
2002年12月には、国際的なバイオベンチャー企業への投資クラブ「コスモス・アライアンス」に参加した。コスモス・アライアンスは2002年8月に設立された投資クラブで、本部を米国ワシントン市に置き、元米国医薬食品局長官のフランク・ヤング(FrankE.Young)博士が会長兼CEOであった。
同クラブは、革新的なバイオ技術を持つベンチャー企業(技術メンバー)を資本力のある有力企業(企業メンバー)に紹介し、両社間で共同開発、技術提携、資本提携などを進めて、バイオ産業を発展させることを目的とした。当社は同クラブの企業メンバーとして入会し、2002年12月、米国のバイオベンチャー企業3社へ投資を行った。

新会計システム導入に際しての説明会
営業資金効率化委員会、経費効率化委員会、G委員会といった経営改革を支えてきた取り組みは、開始してからおよそ10年を迎えようとしており、それぞれ新たな段階にあった。経費効率化委員会は、少数精鋭化の推進、業務の統合と集約、社宅や寮の集約、諸経費の削減、営業所立地の見直し、福利厚生制度の見直しを継続的に進めることで、基準とした第119期(1996年3月期)の本社費に対して、年間50億円前後の削減効果を上げていた。営業所の見直しでは2002年3月、同委員会の決定に基づき、新潟、北陸、広島、仙台の4営業所が閉鎖された。各営業所の業務は本社や各支店に引き継がれるとともに、顧客サービスについてはホームページの充実を図るなど、電子媒体の拡充によって対応を強化した。また、超低金利政策の長期化によって維持が困難となっていた社内預金制度も、労働組合との協議のうえ、2002年3月に廃止した。なお2002年6月、経費効率化委員会の委員長であった秋谷文男常務は、「当面の大型課題が完了し、本社費の削減が進んだことから、今後はG委員会の一分野として活動することとしたい」と報告し、第126期(2003年3月期)下期以降はG委員会の活動に合流した。G委員会は、製造部門を中心に自動化・省力化技術の導入や生産効率の向上などによって、継続的にコストダウンを実施した。
1992年5月のG委員会の発足から1999年6月まで委員長を務めた小柳副社長は、2000年6月、G委員会の報告を受けて、「活動開始から長時間が経ち、次第に合理化の余地がなくなってきたにもかかわらず、工場の大変な努力により大きな成果が上がっていることは喜ばしい」と高く評価するとともに、「いままでのやり方では、いずれは先細りとなるので、新しい抜本的なコスト削減に、時間をかけてでも取り組まなければならない」とさらなる前進に向けてG委員会のいっそうの努力を求めた。G委員会は2000年代に入ると、物流費の節減にも力を入れるとともに、後述する生産技術の改革や向上に向けたシックスシグマ活動を積極的に取り入れながら、実効性の高い合理化を進めた。2003年6月、委員長の秋谷専務は「127期(2004年3月期)より開始の3カ年30%コスト削減計画の実行」を目標として掲げ、その達成に向けて「1課題の発掘と具体化のためのロードマップの作成、2シックスシグマ手法の積極的活用」を進める、と報告した。営業資金効率化委員会は第124期(2001年3月期)に入ると、第123期を基準とする新しい目標を設定し、代金回収や在庫の適正化、販売直接費の合理化に取り組んだ。経済全般にデフレ傾向が続くなか、在庫が増加すると含み損が増えて大きな負担となるため、同委員会は在庫の厳しい見直しを行った。販売直接費についてはG委員会と連携して削減努力を続けた。
2003年12月、委員長の坪倉弘明専務の報告を受けた金川社長は、「営業資金の効率化は地味な仕事であり、取引先との摩擦などもあると思うが、毎年続けることで大きな成果を上げている。坪倉専務と関係者の皆さんにお礼申し上げる」と述べ、同委員会の活動を高く評価した。また、IT技術による業務の効率化も進んだ。2001年12月から本社のイントラネットが稼働し、当社グループのイントラネット導入が始まった。これはインターネットと同じWeb技術を使ってグループ共通のネットワークをつくるもので、従業員の情報感度の向上、グループ内の情報共有化、業務の効率化が目的であった。2001年10月には全社統一の会計システムの第1段階が稼働した。これは、経理業務を抜本的に見直す「経理業務改革プロジェクト」の一環であった。同プロジェクトは、経理業務量の削減と月次締切日程の短縮を実現して、効率化を図るものであった。そのため新しいシステムを構築して、会計情報の全社一元化と共有化、データのさらなる活用を進めた。第1段階では出納業務の本社集中、全社レベルでの勘定科目コード体系の簡素化、会計データ入力操作の簡素化、帳票類の統一などを行った。この新システムは、2003年7月から群馬事業所、2003年10月から直江津工場、武生工場、鹿島工場に相次いで導入された。

訪中使節団長として周恩来首相と会談する小坂善太郎 (左、1972年9月)
2000年11月26日、小坂善太郎相談役が腎不全のため逝去した。88歳であった。小坂相談役は1912年、長野県長野市に生まれた。東京商科大学(現・一橋大学)を卒業後、三菱銀行(現・三菱東京UFJ銀行)を経て1939年に当社に入社、1940年9月に直江津工場長に就任した。その後、取締役、代表取締役常務を経て、1948年6月に代表取締役専務に就任。戦前から終戦直後の当社経営に携わり、その後の発展の礎を築いた。
また、1946年の衆議院選挙で初当選して、1990年に政界を引退するまでの間、労働大臣、国家公安委員長、外務大臣、経済企画庁長官などを歴任した。日中国交正常化協議会会長として1972年の日中国交回復に寄与するなど、議員外交でも大きな役割を果たした。1982年5月には勲一等旭日大綬章を受章した。政界進出にともない1949年6月に代表取締役専務を辞任したが、その後も、当社の監査役や特別顧問を務めた。政界引退後の1991年6月に取締役相談役に就任し、2000年6月には相談役となり、大所高所から経営への助言を続けた。
小坂相談役の通夜・密葬は東京都中央区の築地本願寺で11月30日に行われた。通夜には弔問の勅使が訪れ、従三位に叙せられたことが伝えられた。これは、小坂相談役の長年にわたる国政および産業界における功績を顕彰するものであった。
本葬は12月20日、長野市の長野県県民文化会館で行われた。小坂相談役の一周忌にあたって、2001年10月22日には東京都港区のホテルオークラで「偲ぶ会」が開催された。

第125期(2002年3月期)の決算説明会
2000年代に入ると中国が低コストを武器に「世界の工場」として本格的に国際市場へ参入してきたこともあり、世界規模で企業間競争が激化した。そのため国内製造業には、効率化や合理化を進めて国際競争力を高めることが強く求められた。
シンテックで少数精鋭による合理的な経営に徹してきた金川社長は、当社にはまだ合理化の余地があると考えていた。そこで当社の取締役待遇となっていたシンテックのシュレーダー副社長に国内各工場の視察を求め、このように依頼した。「あなたの目で日本の工場を見て、仮に同じ工場を新しくつくり、あなたが運営を担当した場合、どういう組織と人員にするか、その結論を報告してもらいたい」。シュレーダー副社長は2001年10月から11月にかけて、群馬事業所、直江津工場、武生工場を訪問し、シンテックのフリーポート工場長として実践している方法や経験に基づいて、各工場の適正な組織と人員に関する提案をまとめた。その内容は、研究開発部門を除く信越化学の群馬、直江津、武生の3工場の当社従業員、関係会社の独自採用者などの人員のうち、省力化投資などの設備投資を行わなくても23%が削減可能で、設備投資を行えば36%を削減できるというものであった。
この数字算出の根拠となった考え方は以下の11項目であった。
1総務部門の廃止
2工場製造部門の管理職の大幅削減
3原動部門の簡素化
4工場技術部門の廃止
5工場原価計算の簡素化
6コントロールルームの統合
7人事考課の評価が明確にわかるような給与制度
8多人数のエキスパートを養成して工場や子会社に派遣して合理化を進める
9多重チェックの廃止
10シリコーン、マグネット、セルロースなど少量多品種製品の品種の統合
11ボールベアリングやファスナーメーカーなど、多品種あるいはオーダーメイド製品をつくる会社の事例の研究
2001年11月、この報告を受けた金川社長は、「(当社グループは)これまではいくつかの事業を成功させてこれらの無駄を補い、何とかやってきたが、現在の未曾有の世界大不況下では、これを続けられない」として、至急、組織および人員の適正化を図るよう指示した。
こうした強い危機感のもとで小柳副社長、森専務、秋谷常務を中心に検討が進められ、2002年1月、適正人員体制構築に関する基本構想が人事部から提案された。一定年齢以上の従業員を対象とする既存の早期退職優遇制度(「進路選択加算金制度」)を拡充した「セカンドライフ支援制度」を設けて、これを原則として60歳未満の全従業員に適用するという内容であった。
その目的は、事業環境の大幅な変化に柔軟に対応するために、人員を固定的に捉えず、可能な限り流動化した体制を構築することにあった。労働組合は2002年2月の中央臨時大会で、退職強要を認めないことを前提に、自己の人生設計を考えるための啓発活動の一環として、セカンドライフ支援制度を了承した。
実施に際しては、上司が対象者全員と個別面談を行い、それぞれの意志を確認したうえで、3月末までに制度に応じた従業員に対しては、進路選択加算金を増額した特別退職加算金を支給した。この制度に応じて退職した従業員数は連結ベースで1559名、そのうち当社は370名であった。特別退職加算金の総額80億円は、第125期(2002年3月期)連結決算の特別損失に計上された。2002年3月末現在の連結従業員数は1万6456人となり、セカンドライフ支援制度の実施などによって前年比2942名減となった。2002年7月、この報告を受けた金川社長は、「安易に従業員を採用し、製品需要が減少したからといって、安易に人員整理をすることは絶対に許されない」として、「本社、支店、工場、関連会社などは、国内外を問わずすべて、従業員の採用もしくは従業員の削減を行う場合は、必ず事前に人事担当役員および人事部長の許可を得ること」を指示した。
また、セカンドライフ支援制度実施後の生産体制については、2002年4月の月例検討会の席上、小柳副社長が次のように報告した。
「森専務、秋谷常務と直江津工場と群馬事業所を訪問し、セカンドライフ支援制度実施後の生産体制について打ち合わせを行った。各工場とも十分な検討を重ね、生産体制を確立している説明を受けて安心した。安全に対しては十分な注意と対策をお願いする」。
終身雇用を尊重し、採用した人材は大切に育成していかなければならないが、そのためには採用人数を絞り込むことが必要であった。その原点はシンテックの経営にあり、シンテックは「はじめからリストラされた会社」と呼ばれるスリムな会社であった。こうして当社およびグループ各社は、さらなる少数精鋭化を目指した。

連結中心の情報開示に向けた当社グループ経理担当者の実務検討会議(2000年7月)
経済のグローバル化が進展するなかで、わが国の会計基準の見直しが進められ、1999年から順次、新たな制度が導入された。その第1の柱は連結決算を重視した情報開示制度であった。2000年3月期から連結決算の発表が義務づけられ、多くの企業が2000年9月中間決算から連結中間決算の発表を開始した。また、2003年4月1日以降に始まる事業年度からは、四半期決算の開示が求められた。
当社は、このような流れのなかで、第123期(2000年3月期)から有価証券報告書と決算短信を、連結決算を中心とする内容に改めた。中間連結決算については第3章第Ⅰ節に述べたとおり、すでに1997年11月発表の第121期(1998年3月期)中間決算から開示していた。四半期決算(連結決算)は2003年7月発表の第127期(2004年3月期)第1四半期から発表を開始した。
また、証券市場の機能を十分に発揮させるには、多様な投資判断を持つ幅広い投資者層、特に個人投資家の取引機会を拡大することが必要であるため、上場会社には投資単位(1株当たりの株価×市場における売買単位)の引き下げが求められた。当社もこれに応じて2001年6月に定款を変更し、同年8月から1単元の株式数を1000株から100株に引き下げた。
こうした背景もあり、引き続きIR活動に力を注いだ。まず2000年8月には、連結業績予想の発表を開始した。当社の連結決算の業績は、当社グループの事業領域を取り巻く経済情勢、市場の動向、対米ドルをはじめとする円の為替レートなどの影響を大きく受けるため予測が難しく、それまで発表を控えてきた。しかし、アナリストなどからの強い要望を受けて発表に踏み切った。さらに2002年からは連結業績予想の発表時期を繰り上げて、決算発表と同時に行っている。
2000年12月には広報部を設置した。広報業務はそれまで社長室広報グループで行っていたが、独立した組織とすることで、情報開示の担当部署を明確にした。広報部はIRとPR活動を強化して、株主、投資家、顧客、地域社会などに向けて的確な情報発信を行い、経営の実態を正確に理解してもらうように努めた。
また、2001年5月の第124期(2001年3月期)決算説明会以降、シンテックと信越半導体グループの業績を開示している。これも情報開示の強化・拡充策の一環で行ったものである。このような取り組みが評価され、2001年9月、日本証券アナリスト協会による2001年「リサーチ・アナリストによるディスクロージャー優良企業選定」で、当社は「ディスクロージャーの改善が著しい企業」4社のなかの1社に選ばれた。その選考理由を同協会は、「経営者による投資家・アナリストとの積極的対話姿勢が高く評価(得点率トップの82%)されたほか、IR部門を専任化して、セグメント情報の開示、英文情報の遅滞ない作成とその内容充実を図るなど情報提供を積極化して、ディスクロージャーの著しい改善を図った」とした。
当社のIRに対する基本姿勢は、1安定して株主の期待に報いることが経営の基本方針である、2業績で株主に応えることができて初めてIRが意味あるものになる、3事実をありのままに過大でもなく過小でもなく正確に説明する、というものであった。
金川社長は2002年には、1年間で延べ700人のアナリストや機関投資家と直接面談し、アナリストや機関投資家とのスモールミーティングやセミナーなどへの出席回数は合計18回であった。

2002年度「東洋経済賞」の表彰式
先行き不透明な経済動向のなかで継続して好業績を上げた結果、当社への社会的な注目度は高まっていった。2002年6月、経済産業省所管の独立行政法人経済産業研究所が、内閣府の経済財政諮問会議に提出した報告書『日本の優秀企業研究』のなかで、世界に通用するビジネスモデルを持つ優秀企業の一社として当社が紹介された。この研究プロジェクトは、厳しい経済環境下でも良好な成果を上げている日本企業を選択し、そこに特長として見出せる共通項を明らかにすることにより、日本企業再生の方向を探る視座を得ることを目的に行われた。
この報告書は、「日本企業の将来像を考える研究会」(経済産業省主催)によってまとめられた。同研究会では日本のエクセレントカンパニー10社を選定し、10社の社長へのヒアリングなどを実施した。金川社長は、その第1回ヒアリングの講師として招かれた。2002年12月、当社は東洋経済新報社主催の2002年度「東洋経済賞」の「カンパニー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。同賞は、日本の産業・経済の発展に功績のあった企業を選定し、表彰するもので、1990年に創設された。当社の受賞理由は、化学産業という厳しい業界で、いち早く経営改革を進め、第125期(2002年3月期)まで7期連続で最高益を更新するという好業績を達成したことであった。また、金川社長の経営力、トップシェアの事業を多く擁する堅実な経営体質などが高く評価された。
2003年1月には、金川社長が財界研究所主催の2002年度「経営者賞」を受賞した。これは月刊誌『財界』を発行する財界研究所が、その年度に活躍した経営者を表彰するもので、2002年度はその第43回目であった。金川社長の受賞理由は、優れた先見性をもって当社を世界に通用する企業に育て上げたことであった。また金川社長は2001年6月に、FEC国際親善協会(現・民間外交推進協会)の第5代会長に就任した。
同協会は、国際理解と多面的交流を深めるために1983年に創立された非営利の国際交流機関で、法人・個人合わせて約1500の会員で構成されている。民間の活力を基盤に、官界や外国政府代表などの参画を得ながら、経済・文化交流、国際協力事業などを通じた対外交流の推進や、民意の外交への反映、政府外交の支援などの役割を担っている。

シンエツ化成の記念碑

シンエツ化成の肥料製品倉庫
2000年以降、市場環境の変化に合わせて、事業の選択と集中に向けたグループの再編が加速した。
2000年10月、当社は信越金属工業を吸収合併した。信越金属工業は、主力の鋳鉄用添加合金事業を東洋電化工業に営業譲渡しており(第3章第Ⅱ節)、2000年3月には設備の撤去と従業員の当社グループへの移籍も完了した。
2002年6月には、当社設立以来取り組んできた肥料事業から撤退した。肥料分野は1990年代後半以来、事業環境が悪化しており、かねてからさまざまな対策を講じてきたが、経営の選択と集中を図るため撤退を決断した。
これにともない、当社全額出資子会社のシンエツ化成が行っていた石灰窒素などの肥料事業は、コープケミカルに譲渡された。譲渡先のコープケミカルは1938年に設立された肥料メーカーで、幅広い品揃えを持ち、肥料分野では優れたブランド力を有していた。
2002年2月25日、当社はコープケミカルとの間で肥料事業譲渡に関する契約に調印し、創業時の主軸であった肥料事業の幕を閉じた。
また、2002年5月には、酢ビ・ポバール事業の強化に向けた新会社「日本酢ビ・ポバール株式会社」を設立した。
当社は1968年12月に、ニチボーと共同で、信越酢酸ビニルとニチボーケミカルの生産子会社2社を設立、両社が生産した製品を親会社で販売する体制をとった。しかし市場の国際化などを背景に、技術やコスト競争力の強化、営業力の強化、迅速な経営判断が求められたため、2社の生産子会社と、当社とユニチカの酢ビ・ポバール販売部門を統合して、営業、製造、研究が一体となった体制に改めた。
新会社は当社とユニチカが各50%を出資し、本社は大阪府堺市に置いた。この統合で日本酢ビ・ポバールは、酢酸ビニル年産12万t、ポバール年産4万tの生産能力を有する会社として、新たな成長を期した。
これまで本節で見てきたように、2000年から2003年にかけて、経営資源の集中と有効活用を進め、世界を舞台に事業の積極展開を図った。2000年代前半、国内経済は回復への確かな道筋をなかなか見出せない状況にあったが、当社グループは上述の経営努力を背景に業績を伸ばした。
第124期(2001年3月期)連結決算は、売上高前年比18.9%増、営業利益同28.8%増、経常利益同37.2%増、当期純利益同33.7%増と、前年を大きく上回った。オランダのシンエツPVCが買収後初年度から収益に貢献し、シンテックも前年に続いて過去最高の業績となった。半導体シリコンやエキシマレーザー用フォトレジストも、国内外の半導体デバイス市況が活況を呈したことを背景に、出荷が好調に推移した。また光ファイバー用プリフォーム、液晶表示装置用フォトマスク基板、酸化物単結晶(LT)なども、情報通信分野の急成長と相まって順調に伸びた。
2001年に入ると、それまで高成長を続けてきた米国などのIT関連企業が、一転して急激な業績不振に見舞われた。いわゆるITバブルの崩壊である。その結果、景気は世界規模で後退した。
このようななかで金川社長は、2001年9月、「取締役の責務は、おのおのの担当分野・部門の収益もさることながら、信越のボードメンバーとして信越グループ全体の収支改善(増収・増益)にある」として、1第125期(2002年3月期)下期、2第126期(2003年3月期)通期、3第127期以降(2003年4月以降)の3~5年の中期について、担当部門だけでなく、当社グループ全体を視野に入れた増収増益策を提出するように、当社取締役および主要関係会社社長に指示した。こうしてグループが一丸となって増収増益に力を注いだ結果、第125期連結決算は営業利益、経常利益、当期純利益が前年を上回り、当期純利益は7期連続で最高益を更新した。
2002年4月から始まった第126期は、各部門が毎月、目標売上・利益に向けた具体策を報告し、特定の事業分野に頼ることなく全部門で増収増益を実現することで、当社グループ全体の業績向上を目指した。このようなきめ細かな対応によって、第126期連結決算は増収増益となり、8期連続の最高益更新となった。
小坂善太郎相談役は、創業期に経営基盤の確立に努めた小坂順造の長男であり、戦前には自身も直江津工場の強化などに努め、その後も役員として経営に携わったため、政界だけでなく、当社への功績も小さくなかった。このような経歴にもかかわらず、政界引退後、取締役相談役として当社の役員に復帰してからは、現経営陣に会社の舵取りを任せ、大所高所に立って経営を見守ることに徹した点は特筆に値する。
株式会社は言うまでもなく株主のものである。しかし、優れた創業者が「会社は自分の分身である」との思いから、晩節に至って一族の私的利害を経営に持ち込むなどして、社内を混乱させてしまうということも、日本の経営史上にはしばしば見受けられる。
小坂家は、順造、徳三郎、雄太郎が社長を務めた経緯もあって、社内では「実質的創業家」として遇されてきた。このような背景もあって小坂相談役は、社内で大きな影響力を行使しうる立場にあったため、公私混同することのないよう、ことさら厳しく自らを律した。一方、金川社長も日頃から「会社は株主のものであり、経営者は株主の委託のもとで経営を進めている」、「私のボスは株主」と明言し、経営の透明性の確保に力を注いだ。あらゆる意思決定が合理的に行われるように社内改革を進め、公私のけじめをはっきりとつけた近代的な経営体制の確立を図った。しかし、時代の変化にいち早く対応して会社の改革を進める際には、旧来の発想から抜け出すことができず、「株主の期待に応える」という経営の究極的な目的を阻害しかねない抵抗がつきものである。会社を発展させるためには、こうした陋習や抵抗と戦うという確固とした意思をもって、金川社長は改革を推進した。そして、このような金川社長の経営姿勢に全幅の信頼を寄せていたのが小坂相談役であり、また、越壽三郎初代社長の生家の小田切家出身で、社長や会長を歴任した小田切新太郎相談役であった。
小坂相談役は、「株主に選任された経営者が立派に経営を行っているのだから、小坂家は経営の意思決定に直接介入せず、グループの求心力強化という象徴的な役割を果たすことで経営を支える」という立場で一貫していた。こうして1990年代以降、金川社長のもとで経営改革が急速に進展し、グループの求心力が高まっていった。この間、小坂相談役は、経営の透明性確保に向け、実質的創業家の矜持を胸に、経営への直接介入を自戒した。
経営者としての金川社長の手腕を高く評価し、金川社長のもとでの経営を一貫して支え続けた小坂相談役と小田切相談役の見識の高さは、いまも関係者が等しく認めるところである。
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