

新たな挑戦の始まり
1990-1994
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護国寺桂昌殿で執り行われた小坂社長の葬儀
1990(平成2)年8月21日、小坂雄太郎社長が東京都中央区の国立がんセンター病院(現・国立がんセンター中央病院)で永眠した。70歳であった。1983(昭和58)年8月に小田切新太郎社長からバトンを受け継いで7年、経営環境の荒波を乗り切り、当社グループの業績を安定させた矢先の出来事であった。
ここに小坂社長の略歴を紹介する。小坂社長は1920(大正9)年3月に長野県長野市に生まれ、1943年に京都帝国大学工学部を卒業後、日本海軍技術将校に任官した。当社に入社したのは、終戦後の1945年10月である。当社においては磯部工場長、直江津工場長などを経て、1966年7月に取締役に就任、その後、常務取締役、専務取締役を歴任し、1983年8月に代表取締役社長に就任した。
7年間にわたる在任期間中、国内は円高不況から内需拡大を背景とした好景気へと絶え間なく変化し、海外においても米国経済の退潮、東欧諸国の崩壊など、戦後長く続いた冷戦構造が急速に終焉に向かい、変転を極めた。このようななかにあって小坂社長は、既存事業の収益構造の強化と新規事業育成を図るとともに、生産現場に対しても品質管理や安全管理などのきめ細かな目配りを欠かすことはなかった。同時に、個々の製品・サービスの質を高めることに力を注ぎ、国内外におけるブランドカ向上に大いに貢献した。また、1986年4月以降は、信越半導体社長も兼任するなど、先頭に立って当社グループを牽引した。1986年から1987年の円高不況、半導体不況という厳しい経営環境を乗り切り、亡くなる直前の第113期(1990年3月期)決算は、前年に引き続き過去最高の売上高を記録した。また、電子材料事業の育成と同時に海外展開も積極的に進め、国際企業への新たな歩みも促した。
人間ドックで異常が認められたのは、そうしたさなかの1990年3月のことであった。4月に手術を受けたあと、体力の回復を待って社業に復帰すると、例年どおり6月の定時株主総会では議長を務め、猛暑となった7月も社内の重要会議には欠かさず出席するなど職責を果たした。しかし、8月に入り再び体調を崩して入院、周囲の願いもむなしく不帰の客となった。小坂社長急逝の報は、各界に驚きと悲しみをもって伝えられた。わが国の化学工業界および日本経済の発展に尽くした小坂社長の功績を顕彰して、8月21日付で勲二等瑞宝章が贈られた。
通夜と葬儀は8月24日、25日、東京都文京区の護国寺桂昌・殿において、小坂家の菩提寺である長野市の浄土宗終南山善導寺の吉水圓晋住職を導師として荘厳に執り行われ、両日とも多数の弔問客が駆けつけた。
9月27日には東京都港区の増上寺で、当社と信越半導体による合同社葬が執り行われた。葬儀委員長は小坂徳三郎最高顧問が務めた。午後1時より始められた葬儀には、親族、取引先、当社グループをはじめ各界から弔問客が参列し、増上寺の広い前庭が埋め尽くされた。化学工業界を代表して、日本化学工業協会会長の森英雄住友化学工業社長から弔辞が捧げられた。

直江津工場を視察する金川社長(中央)

1993年4月の本社入社式
小坂社長逝去にともなう後任人事決定のため、当社は1990年8月25日、臨時取締役会を開催した。その結果、代表取締役社長には筆頭副社長であった金川千尋副社長が選任された。さらに、9月の取締役会では菅原太郎、橋本正身、小柳俊一の各専務が、代表取締役副社長に選任された。これにより当社の副社長は、同年6月に選任されていた若杉史夫副社長とあわせて4名という体制になった。
金川社長は、当社の設立と同じ1926年の生まれで、東京大学法学部を卒業後、極東物産(現・三井物産)に入社。1962年に当社に入社し、塩ビの技術・プラント輸出に手腕を発揮するとともに、国内の塩ビ事業の再建を果たして黒字化させるなど、当社グループの業績の改善と向上に大きく貢献した。シンテック社長として、同社を全米トップの塩ビメーカーに育て上げ、その経営手腕については米国においても高く評価されていた。
金川社長は就任にあたり、当社が経営の「基本目標」として第113期(1990年3月期)から掲げていた、「創立70周年を目指した長期経営目標の実現に向け、さらに“守り”を固めつつ“攻め”に徹し、真の国際企業への革新を進める」ことの継承を確認した。
この経営方針の策定に副社長として参画していた金川社長は、「“守り”を固めつつ“攻め”に徹する」について次のように説明した。
「強調したいのは、昨日の繰り返しのままであっては“守る”ことにならないことです。日に日に競争は熾烈なものになるでしょう。したがって、これら(塩ビ、シリコーン、半導体シリコン、セルロース誘導体、マグネット、合成石英など)の分野においても“攻め即守り”ということを忘れてはなりません。これらの製品の周辺用途を広げる研究開発や、生産コストの削減は大切ですし、生産性の向上に結びつく効率化・自動化・省力化も、競争に勝つためには欠くことができません。しかし、現在の製品のみに固執すれば、21世紀に向かっての大きな飛躍は考えられません。そこで“攻め”の主体は新規事業となるでしょう。これらは社内に“活力と夢”を与えます。新規事業については、社内の中堅クラスの方々や、若い人たちと情熱を持って進めたいと思います」(社報『信越化学』1990年9月緊急増刊号)。
当時の主要事業について市場での位置づけを見ると、塩ビでは、シンテックをはじめとする当社グループが世界でトップシェアを占めており、シリコンウエハーも世界最大のメーカーであった。また、シリコーンは国内でトップシェアを有し、世界でもダウコーニングやGEに次ぐ規模となっていた。
これらに加え、医薬や建材分野で実績を伸ばしているセルロース誘導体、IC用フォトマスク基板で実績を上げ、さらに光ファイバー用プリフォームへの用途が有望視されていた合成石英、VCM向けが好調なレア・アースマグネットなどの事業も着実に育っていた。
金川社長は、さらなる増収増益を目指して、積極的に既存事業の基盤強化と新規事業の育成に力を注ぐことを基本方針とした。
◆採用人員はゼロベースで考える
G委員会の設置に見られるように、第116期(1993年3月期)の期初における経営見通しは極めて厳しいものであった。
新たな不況期の到来に対し、企業体質の強化という正面からの対抗策で臨んだ当社にとって、さまざまな改革を進めていくうえでもっとも重要なことは、あらゆる面での意識改革であった。なかでも人員や人事施策に対する意識改革に力を注いだ。
それは、1991年8月、次年度の定期採用方針策定の時点にさかのぼる。金川社長は全社的に以下の3点を要請した。
1人員の絶対数を極力絞る。
2技術系はもちろん事務系を含め、質のよい大学新卒者採用のため、人事部だけでなく全社的に協力する。
3採用された新人に対して、ヒューマンクリエイトなどによる研修に加え、各部門の部長、課長、係長がOJT(現場で部下を指導すること)を通じ、将来役に立つ人材の指導、育成を徹底して行う。
さらに、1992年4月にも再度この問題に触れ、「全社に要請する」として、こう指示している。
「近年の人員増加は当社の将来に大きな問題を残す。このため、下記に関し組織の末端まで徹底させる必要があるが、これには各責任者の意識革命が必要である」。
このとき取り上げたのは以下の4点である。
1現在の人員が真に有効に活用され戦力化されているかどうか、また、思い切った減少の可能性がないか、すべての仕事の原点に戻って徹底的に見直す。
2特に本社管理部門をスリム化させ、少数精鋭で効率運営に努める。
3新規採用については、これまでの採用方針を根本的に改め、大幅削減を前提に、本当に優秀な新人の採用に限定する。
4現在の従業員を大切にすることを基本としたい。そのためには、新規採用を含め、人材の鋭意育成・活用に注力すること。
この席上、小坂善太郎取締役相談役は、「全く同感である。現在の人員を大切にし戦力化に注力するとともに、新人採用も厳選のうえ、少数精鋭で勝負してもらいたい」と述べた。
景気後退がはっきりとしてくると、引き締まった企業体質の構築を目指す金川社長は、募集人数を縮小するよう指示を出した。会社として責任を果たすためには、不況を理由に安易に人員削減はできないので、少数で生産性の高い組織を目指すためであった。
しかし、定期採用で各部門から最初に提案された採用希望人数は例年どおりの数字であった。そのため慣例を捨てゼロベースで、本当に必要な人員だけを採用するという方針の徹底を図った。その結果、かつて600名を超えた本社、支店、営業所、および各工場の新卒採用人数は絞り込まれ、1993年度は139名、1994年度は160名であった。

金川社長を囲んで実施した営業資金効率化小委員会の「デリバリー担当者会議」
1990年8月にイラク軍がクウェートに侵攻した。そのため国際情勢はさらに先行き不透明感が増し、国内経済もすでに景気の過熱感が生じていた。金川社長はこうした内外の動きについて、次のように見ていた。
「当社は今年初めに転換社債を有利な条件で発行しましたが、オイル高からインフレ、高金利、株式市場の長期低迷などが続きますと、二度とこのような有利な条件でのエクイティファイナンスは困難になるでしょう。したがって、これからは手持ちの資金は大切にしなければなりません。すでに増設を決定した工事は急いで完成させ、建設中のものは、一刻も早く生産開始へ持っていき、販売に結びつける必要があります。新たな投資に関しては、不急なものは凍結や見直しが必要です」(社報『信越化学』1990年9月緊急増刊号)。
その後、実際に金融情勢に変化の兆しが見え、企業の資金調達が厳しくなるなかで、松井田分工場のシリコーンモノマー第2プラントをはじめとする設備投資計画を予定どおりに進めていくと、第116期(1993年3月期)に手元資金が底をつく可能性があった。この事態に対応して金川社長は、1990年10月、資金の効率化について検討・立案するよう経理・財務部門に指示した。
秋が深まるにつれ、数年来の好況に沸いていた国内経済が陰りを見せ、それまで高収益を謳歌していた化学メーカーのなかからも、経営体質改善に着手する会社が出てきた。
経理・財務部門は、各事業部門と打ち合わせを重ねて検討した結果、「棚卸資産在庫の圧縮」「売上代金の回収期間の短縮」「立替金・前払金、その他資産の見直し」などを重点目標とした営業資金効率化案を提案した。
これを受け、金川社長は具体的推進機関として「営業資金効率化小委員会」の設置を決定し、1990年12月、和田修一常務を委員長に、経理・財務部門を事務局として正式に発足させた。同小委員会は、日々の業務の改善によって資金を効率化する具体策を策定するために、即刻、各事業部や工場などと検討を進めた。
また、この活動には取引条件の変更が必要となるため、その点で取引先に誤解や迷惑を与えないよう慎重に進めた。加えて、製品在庫の圧縮により、需要家への安定供給を損なわないように、格段の注意を払った。
同小委員会では、各事業部および工場でヒアリングを行い、具体的な改善目標金額の算定に入り、1991年4月、在庫圧縮、代金回収日数短縮などによる93億円の目標額を提示した。
その後、営業資金効率化小委員会は、目標達成に向けて、年間スケジュールに沿った継続的な活動を進めた。各工場や支店でも委員会や勉強会を開催し、これらの会合には必ず和田委員長をはじめとする委員が出席した。委員が本社から出向くことで、営業資金効率化活動を文字どおり全社的なものとし、従業員一人ひとりが日常業務のなかで改善すべき課題として取り組む環境づくりを進めていった。
こうした積み重ねが実り、営業担当者は売上債権の早期・完全・確実な回収という原則を再認識するとともに、工場では生産量が増加しても在庫は増えず、注文を受けてから納品までに要するリードタイムも短縮されるといった成果が見られた。
さらに同小委員会は、活動範囲を販売直接費や物流費の削減にまで広げ、後述するG委員会と共同で、全社的に経費節減と収益改善に取り組んだ。
第115期(1992年3月期)末までに、改善金額は140億円に達した。その結果、1992年6月に償還期を迎えたワラント債を借り入れに頼らず償還することが可能になり、手元資金も増加するなどの多大な成果を上げた。
この活動は一過性のものであってはならず、継続した努力が必要であることから、このあとも絶えることなく続けられた。

生産技術の向上と水平展開を目指して実施した「製造・技術交流会議」(第1回1993年12月)
社報『信越化学』1991年1月号の「新春インタビュー」で金川社長は、「当社が現在持っている事業だけにいつまでも頼っていたのでは、さらなる発展が見込めませんので、次の柱となりうる新規事業を育てなければなりません。新規事業への取り組みは、次代を背負う大型なものも含めて、今後は皆さんとともに検討していくつもりです」と、新規事業育成へ向けた抱負を述べた。
その言葉どおり1991年9月、新規事業に向けたテーマ選定のための「Z委員会」が設置された。これは、5~10年後に当社を支える新規事業に育つような、大型の新しい研究テーマ(Zテーマ)を選定するための取り組みであった。
委員長には金川社長、副委員長には小柳副社長と和田正専務が就任し、以下8名の委員で構成された委員会は、企業開発部が事務局となった。Z委員会では全社を挙げてテーマ探索を行うこととし、委員は委員会発足直後から全工場や研究所を訪問してヒアリングを実施した。
当初、検討に値するテーマとして取り上げられたものは115件に達し、市場性と成長性の観点から第1次スクリーニングをかけて絞り込みを行った結果、1991年10月末時点で残ったのは26テーマとなった。さらに当社が培った技術・ノウハウなどとの関連性という視点で第2次スクリーニングを行い、1991年12月末には10テーマまで絞り込まれた。
最終的な検討作業を行う評価委員は、専務以上の役員と、事業部、工場、研究所の責任者など、合わせて32名だった。評価委員へのプレゼンテーションは1992年3月初めに実施されたが、それまで半年にわたるZ委員会の取り組みを総括すると、会合53回、研究所訪問15回、社長ヒアリングは7回にのぼった。
このようなテーマ選定が進む間も、景気後退色が鮮明になっていった。当社は経費節減への取り組みを進めたが、そのなかにあっても、将来の当社を支えるZ事業は決して中止しないという方針を堅持した。
新規事業は、取り組み始めてから5年から10年間は利益を生み出さないが、景気の変動にかかわらず推進すべきであるという認識のもと、新規事業への投資を継続するために、現有事業の強化による基礎体力の向上を進めた。1992年2月、Z委員会の報告を受けた小田切取締役相談役は、「信越の将来のための新しい柱づくりを目指し、社長みずから委員長となって鋭意検討のうえテーマを絞り込んでもらい感謝する」と述べた。
そして1992年4月、第116期の始まりにあたって金川社長は、Z計画について次のように従業員に語りかけた。
「懸案であった新規事業のテーマも、Z委員会を中心として決まりましたので、今後は腰を据えて取り組みたいと思います。このZ計画は時間をかけ、また当社の全員参加の結果できた内容の濃いテーマです。これで現業を中心としたテーマと新規の長期テーマの両輪が定まり、将来へ向けた当社の目標をはっきりとさせることができました」。「この不況時にあえて5年や10年は収益をほとんど生まない長期テーマに取り組む会社の姿勢、そして21世紀を本当に真剣に考えている姿勢を理解していただきたいと思います」(社報『信越化学』1992年4月号)。

「毎日経済人賞」を受賞する金川社長(左)

マネジャー・マガジン(1994年1月号)
第116期(1993年3月期)決算は予測どおりの減収減益となったが、単体の経常利益と売上高経常利益率で、当社は国内化学業界で前年度の2位から1位にランクアップした。
1993年5月、格付機関のムーディーズインベスターズサービスは、当社の社債を「A2」に格付けした。バブル崩壊後、日本企業の格下げが続いていたなかで、当社の安定した財務内容や、企業体質の強化に取り組む経営姿勢が高く評価された結果であった。
金川社長の経営手腕に対する社会的評価も次第に高まっていった。1992年11月には、わが国の塩ビ産業の発展と国際競争力強化などへの貢献が認められ、藍綬褒章を受章した。
また、1993年3月には、毎日新聞社主催の「毎日経済人賞」を受賞した。同賞は毎年、優れた経営手腕で企業の発展と業界に新風を送り、日本経済の活性化や国民経済の発展に貢献した経営者を表彰し、その努力に敬意を表するとともに、企業の社会的責任の大きさを社会に改めて認識してもらうことを目的に創設されたものである。その第13回(1992年度)受賞者として金川社長が選ばれた。
金川社長は、独自の国際的な視野と当社の高い技術水準を生かして、積極的に国際展開を進めた点、特にシンテックの事業を発展させて、当社グループの塩ビの世界シェアをトップに押し上げたことが高く評価された。また、シリコンウエハーでも世界トップシェアを確保し、シリコーンもトップクラスであり、大手化学メーカーが苦戦を強いられているなかで、特段の業績を上げている点が注目された。同賞については毎日新聞の紙面で大きく取り上げられ、当社の社会的評価の向上に大きく貢献した。
◆ドイツ誌企業ランキングでも「No.1」
ドイツの有力な経済誌「マネジャー・マガジン(managermagazin)」は1994年1月号で、同誌と調査会社のボストンコンサルティンググループが共同で集計した企業ランキング「DiebestgeführtenUnternehmenderWelt(もっとも業績がよい企業)」を公表した。これは、株価がある程度は企業の業績を反映しているという前提に立ち、一定期間における株の値上がり益と配当金を合計した「総合利回り(TotalShareholderReturn=TSR)」に基づき、各国の経済状況などの影響を調整して同誌が独自に算出した「相対的総合利回り(RelativeTSR=RTSR)」を算出したもので、世界14カ国の上場企業について比較している(調査対象期間:1990~1993年)。
その化学部門で、当社は世界トップにランクされた。多くの日本企業はこの時期、バブル崩壊後の不況の影響を受け、掲載されたランキング表から逆算すると、日本のTSRは0.6弱であった。そのなかで当社のRTSRは1.69と国際的に見ても極めて高い数値となっていた。その背景には1990年以降の順調な業績推移と、株式市場における高い評価があった。日本経済が危機に瀕するなかで、当社が改革を進めて、着実に成果を上げてきたことが、欧州でも高く評価された。
同年4月の入社式で、金川社長はこの記事を例に挙げて、「当社はハイテク企業、グローバル企業というのが、もっぱらの外部の評価だ。ごく最近、『マネジャー・マガジン』というドイツの有名な経済誌で、信越化学は世界の化学企業のトップにランクされた。大変に名誉なことで、創業以来の立派な経営者と、非常に勤勉な従業員の方々が、いっしょになって土台を築いた結果だと思う」と語った。経営改革を進め、業績を高め続けることで、「国際優良企業」という新たな当社像が生まれつつあった。
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