

次代と世界を見据えて
1995-1999
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1990年代後半、当社は連結決算に大きな影響力を持つ信越半導体について、安定した収益を確保できる強固な経営基盤の確立を進めた。シリコンウエハー市場は確実な成長が見込まれたものの、この市場で世界トップシェアを維持するには大規模な設備投資が必要であった。このため1996(平成8)年6月、当社の電子材料事業本部長であった和田正専務が信越半導体の社長に就任し、経営基盤再構築の任にあたった。
1996年7月、関連会社の概況報告を受けた金川社長は次のように指示した。
「信越半導体のキャッシュフローのなかの利益の見積りは、最近の絶頂期を基準にしたものであり、非常に楽観的すぎる。この計画実行にあたっては思い切って設備投資を合理化する必要があり、その第1の方法は、日・米・欧・マレーシアで行っている設備投資の重複を避けることである」。
「設備投資を行う場合、信越化学ではG委員会などで非常に努力して節減に努めているが、信越半導体グループでも同様の努力を行い、投資内容や金額を徹底的に調べて、最小限の投資額で最大の効果が得られるよう取り組んでもらいたい」。
これを受けて信越半導体グループは、グループ共通の事業方針に基づいて投資計画を見直し、大規模な設備投資については、事前に当社も親会社として十分な検討を行うこととした。
しかし1997年以降、半導体市場は在庫調整期に入り、第121期(1998年3月期)の信越半導体グループの利益は前年を大きく下回った。そこで1998年5月には、当社の小柳副社長が信越半導体の会長を兼務し、和田社長とともに経営強化に取り組んだ。
同年7月、「信越半導体G委員会」が設置され、信越半導体グループで年間100億円の合理化目標を定めた。委員の人選は小柳副社長に一任された。取り組みの結果、1998年度には150億円を超える合理化実績を上げ、以後も目標達成を目指した。
1999年6月、小柳副社長が信越半導体の社長に就任した。そして、当社と歩調を合わせて改革に取り組み、役員の人数も削減し、効率的な経営体制で迅速な意思決定を進めた。信越半導体以外のグループ各社においても、必要に応じて当社の人材を経営陣として充てるなど、各社の経営強化とグループの結束強化を図った。また、収益性や成長性の観点からグループ各社の見直しを行い、成長分野に経営資源を効率的に集中させた。その一環として実施されたのが、信越金属工業で行っていた鋳鉄用添加合金事業の撤退で、1999年4月、同事業は東洋電化工業に譲渡された。
信越金属工業は、1938年の磯部金属試験所の設置以来続いていた磯部工場の金属部門を引き継いで、群馬県安中市に1967年2月に設立された当社全額出資子会社であった。主力の鋳鉄用添加合金では国内市場でシェア約20%、業界3位であったが、自動車向けを中心とする需要が減少し、厳しい採算を強いられていた。1999年10月には、信越金属工業の残りの事業も東洋電化工業に譲渡し、当社の合金事業は幕を閉じた。
海外では1997年8月、米国に持株会社「S-EInc.」を設立した。これは米国で新規事業を展開する際、土地の取得や法律などにともなうリスクを排除し、事業に専念できる体制の確保を目的とするものであった。
すでに米国で事業展開していたシンエツシリコーンズオブアメリカ、シンコアシリコーンズ、マイクロサイ(現・シンエツマイクロサイ)、シンエツマグネティクスなども、この持株会社グループに入り、米国での事業のノウハウ獲得や経営資源の効率化を図った。

PL法施行に際しての研修会(1995年10月)
1995年7月、国内における消費者保護意識の高まりと、消費者保護を重視する欧米の動向を背景に、製造物責任法(PL法)が施行された。当社ではPL法施行に先立ち同年2月に「製品安全推進指針」を制定、各事業部が、取り扱う製品の安全に関する総括的責任を負うことを決定していた。また、指針の制定と同時に、組織を横断する「製品安全技術会議」も設置し、製品安全確保に取り組んだ。
米国ではPL問題に関わる訴訟でダウコーニングが経営上の苦境に立たされた例もあり、当社はPL問題への対応をとりわけ重視していた。製品安全技術会議も形式的ではなく、テーマごとに迅速な対応ができるよう、議長の技術・環境保安担当役員がテーマに応じてメンバーを指名し、機動的な運営を旨とした。
同会議は技術部を事務局として、1製造段階における製品安全推進、2製品についての警告・表示、3化学物質規制への対応、についての全社的な取り組みを主導した。さらにPL法施行直後の同年7月には、群馬、直江津、武生、鹿島の各事業所・工場で、法務部と技術部主催の「製造物責任法と当社の製品安全推進」をテーマとした説明会を開催した。
既存製品についてもPL法の観点から見直しを進め、一部製品の出荷停止を決断した。しかし、そのなかに注射針のコーティングに使用されるシリコーンオイルも含まれていたことで、思わぬ波紋を呼ぶことになった。
注射針にシリコーンをコーティングするのは、注射針の通りを滑らかにするためで、痛みを和らげる効果があった。シリコーンの持つ潤滑性や、生体に対する不活性といった特長を生かした用途だったが、当社は、その最終用途が直接人体の血管に入り、血液に触れる点を重視した。素材メーカーである当社は、最終製品である注射針の製造工程には関与できない。一方、米国では医療機器メーカーのみならず、医療機器の素材を供給した会社までも訴訟の対象になる例が見られるようになっていた。
当社はすでに1994年7月、需要家に対して1年間の猶予期間をおいて出荷停止する旨を通知していた。この間、新たな注射針の開発を進めるメーカーもあった。
この注射針コーティング用シリコーンの出荷停止が、PL法施行と同時期の1995年7月に報道された。しかも、シリコーンのコーティングがなくなることで注射が痛くなる、という観点からの記事だったため関心を集めた。しかし、報道された内容だけでは、製造物責任に関する当社の姿勢と出荷停止の真意が必ずしも伝わらず、一部に波紋が広がった。
厚生省(現・厚生労働省)は注射器および針のコーティング材に関するガイドラインを策定し、当社にコーティング材の供給再開を求めた。当社は需要家と新たな契約を取り交わすなどの対策を講じたのち、品種を限定して出荷を再開することとした。
製造物責任の問題に限らず、1990年代後半は、企業の危機管理が重要テーマとなり、契約や法律などが一段と重視された。当社では、従業員一人ひとりの意識を高めるために、法務部が1997年2月に「取引基本契約対応マニュアル」を策定、同年7月には「秘密保持契約対応マニュアル」を策定して啓発に努めた。

群馬事業所のISO14001認定書
この時期、企業の社会的責任として、環境への対応が大きな関心を集めるようになった。当社も環境への配慮を強化しており、1996年7月には群馬事業所が、国内の大手化学メーカーで初めて「ISO14001」を取得した。
ISO14001は国際標準化機構(ISO)が進めている環境管理システムに関する国際規格で、企業の環境管理活動が審査対象となっている。認証取得には、生産活動における環境負荷の測定、環境負荷を軽減する計画の立案と推進、全般的な環境保全管理システムの構築が求められ、さらに設備や廃棄物の管理状況も審査される。また、認証取得後も毎年、環境負荷削減に向けた「継続的改善」の進捗状況について維持審査が続くという、継続した取り組みを重視するものであった。群馬事業所では、1995年から全従業員を対象に教育を実施するとともに、内部審査を行うなど、認証取得に向けた取り組みを進めた。生産現場における環境負荷低減は、環境保全に大きく貢献することはもちろんだが、生産現場の合理化や効率化にもつながった。
また、この頃、海外企業のなかには、ISO14001の認証を取得した工場で生産した製品であることを条件に取引をする会社も増えており、ISO14001の認証取得は営業面でも重要な課題となっていた。
その後、当社では武生工場が1998年12月、直江津工場が1999年5月、鹿島工場が2000年3月にISO14001の認証を取得した。信越半導体では白河工場が1997年1月、国内シリコンウエハーメーカーとしては初めてISO14001の認証を取得したのを皮切りに、1997年12月までに国内全4工場で認証を取得。1999年9月までには、信越半導体グループの国内外の全13工場が認証取得を果たした。

直江津工場のTPM本審査
1995年9月、直江津工場が日本プラントメンテナンス協会のTPM優秀賞を受賞した。TPMとは前章第Ⅱ節で紹介したように、生産システムの総合的効率化を追求する企業体質づくりを目指し、小集団活動を重層的に展開しながら、設備保全を通して生産性向上の仕組みを構築する取り組みである。
直江津工場では1991年4月のTPM活動開始にあたり、4年後に優秀賞に応募する計画を立てており、1995年に応募することとなった。
優秀賞に応募する事業所は、本審査に先立って、特別指導会で本審査受審の承認を得る必要があった。このため同年2月に直江津工場で特別指導会が開かれ、3名の特別指導委員を迎え、活動の概況説明、各分科会の進行状況報告、現場指導が行われた。
その結果、本審査の受審が承認され、同年8月には大学教授2名、日本プラントメンテナンス協会の顧問1名からなる審査委員を迎えて、「TPM優秀賞第1類(従業員500人以上の事業所が対象)」の本審査が行われ、9月に直江津工場は同賞を受賞した。

全工場で実施している環境保安監査

操業を再開したNR工場
1997年8月12日午後11時30分頃、直江津工場のNR工場グリニャール反応設備で爆発が起こり、従業員1人がやけどを負う事故が発生した。NR工場は直江津工場のなかでもっとも北側に位置し、周辺地域と近かったこともあり、爆発によって工場近くの住宅の窓ガラスが割れるなどの被害が出たが、住民には負傷などの人的被害はなかった。
NR工場は直江津工場のシリコーン生産設備の一つで、1988年4月に竣工したもの。その後1989年7月に、同工場内にグリニャール反応設備が完成した。特殊シランおよび機能性シランの専門プラントで、シラン製品の品種の拡充に大きく寄与していた。
爆発は容量500人、内径800mmの反応器で起こり、一瞬火炎が走ったが、火災には至らなかった。反応器の制御担当者が爆発直前に異常に気づき、現場に確認に行き被害にあった。
直江津工場の伊藤健一工場長から緊急連絡を受けた金川社長は、即座に次の緊急指示事項を、各工場長と関係会社の社長宛に通達した。
・けがをした従業員が、最善最高の治療を受けられるように、早急かつ万全の手配をすること(本件最重要)。
・消防署や警察署、その他の官庁に対して、法令・規制を厳格に守って、事故の内容を正直に、かつ正確に報告すること。
・事故の原因を十分に究明し、同種の事故が直江津工場のみならず、当社グループ全工場で再発しないように、万全の対策をとること。
負傷した従業員は、9月にはリハビリを開始し、1998年1月に職場復帰した。
直江津工場は事故直後から地域の被害状況の把握と付近住民への陳謝を行うとともに、本社と緊密に連絡をとりながら、情報開示、事故原因究明、再発防止に全力で取り組んだ。
調査の結果、判明した事故原因は以下のようなものであった。
1操業前の洗浄作業が不十分で、有機塩化物とマグネシウムの反応を阻害する物質が反応工程に混入した結果、反応開始が阻害された。
2反応が開始しないため、反応開始作業を繰り返したところ、反応器内に発泡が認められた。この発泡により反応が開始したと判断して原料の連続供給を行ったが、実際には反応は開始していなかった。
3反応器内に多量の原料が存在する環境下で、反応阻害物質が消滅した結果、急激に反応が起こり、暴走反応となった。
4反応の途中で反応の有無を確認する作業指図がなかったので、事故を大きくした。
このような事故原因を踏まえ直江津工場は、安全管理体制の強化、安全教育の徹底、専門職による安全審査機能の充実、NR工場で事故を起こした反応器およびその周辺機器の撤去という対策を直ちにとった。
8月22日に関係官庁に事故報告書を提出して指導を受け、9月2日には事故当日に発令された「消防法に基づく製造所等の使用停止命令」が解除された。9月17日に復旧工事が完了し、消防本部による復旧工事完成検査や地域住民への操業再開説明会を経て、NR工場は9月26日に操業を再開した。
この間、当社では、小柳副社長を委員長とした専門技術グループの社内検討会が開かれた。検討結果に基づき直江津工場は、操業再開にあたって、設備や操作面からの安全対策、作業マニュアルの見直し・改定と安全教育、当直人員体制の見直しなどを実施した。
当社では、毎年、全工場で実施している環境保安監査をはじめ、各工場、各製造部門は安全確保にとりわけ力を注いできた。それだけに、この爆発事故は大きな衝撃を与えた。
再発防止のために全社的に設備の見直しを行い、反応の開始と進行を監視できるシステムの設置、緊急放出システムや反応停止システムの設置、民家に面した側の工場建屋の強度を強化する、といった対策が講じられた。
また、安全技術スタッフや安全審査委員会などの組織の充実、操業異常についての技術・研究部門の連携強化、マニュアルの充実と教育の強化といったソフト面の改善も行った。

創立70周年記念事業で地元小学校にシャクナゲを寄贈(信越半導体白河工場)
1996年に創立70周年を迎えた当社は、創立70周年記念事業の展開に向けて同年3月、市村取締役を委員長とするプロジェクトチームを発足させた。本社各部門のほか、各事業所・工場、主要グループ会社による横断チームで、労働組合もオブザーバーとして参加した。
同年10月、記念事業の実施案の骨子が確定した。基本方針は、1お祭り的なものは避け、後に残るものを基本に、2問題・テーマの本質を見極め、実効の上がるものに取り組み、3当社グループの国際化に対応しつつ、4地域社会に十分配慮し、5活性化、熱意、情熱を喚起する一助とする、というものだった。このなかから特記すべき事業を以下に紹介する。
●東京大学「地球環境工学寄付講座」への支援
この講座は1991年4月に発足し、東京大学大学院工学系研究科地球環境工学研究共同体が運営していた。研究テーマは、太陽エネルギー総合利用システムの開発、海洋・陸上の二酸化炭素吸収促進法の検討、資源有効利用システムの開発、太陽電池・燃料電池の開発など、地球環境問題に対応する諸技術の開発であった。当社は1997年4月から5年間支援を続けた。
●信越奨学金制度の新設
当社グループの海外拠点がある各国の学生を対象に、国際社会を担う人材育成を目的に創設。元本200万米ドルの基金を当社が運用し、その運用益を奨学金に充てる。奨学金は米ドル建てで支給し、奨学生の義務は当社が開催する授与式とパーティーに参加することのみ。奨学金の返済や、卒業後に当社グループ各社に入社する義務はない。
第1期は当社グループと特に結びつきが強いマレーシアを対象国とし、日本の大学・大学院に留学しているマレーシアの学生を対象とした「日本奨学生」と、マレーシア国内で学んでいる学生を対象とする「マレーシア奨学生」の2コースを実施した。授与式は、日本奨学生は1999年4月、マレーシア奨学生は同年7月に開催した。その後もマレーシアを対象国として、奨学生の選考と奨学金の授与が続けられた。
●マグネットアイデアコンテスト
マグネットの用途の独創性を競うもので、福井工業高等専門学校(以下、福井高専)が主催し、武生工場が後援している。武生工場の従業員が母校の福井高専を訪れた際、当社のネオジム磁石が話題になったことがきっかけで始まった。第1回は、1995年10月からアイデア募集を始め、1996年1月に審査結果発表と表彰式を行った。武生工場ではこのコンテストを、一般の人たちがマグネットに興味を持ち、理解を深める機会として捉え、毎年支援を継続している。
●鹿島多目的ホール
鹿島工場ではアリーナ、会議室、厚生施設を備えた多目的ホールの建設を計画し、1998年8月に着工、翌1999年4月に竣工式を行った。同ホールは3階建てで、体育館として使うアリーナはバドミントンコート3面分の広さがある。クラブ活動や球技大会のほか、工場内という利便性を生かし、年賀式などの行事に幅広く利用されている。
このほか、直江津工場では1997年3月、地元くびきの上越市および頸城村(現・上越市頸城区)へ福祉機材などを寄贈した。また、鹿島工場では1997年3月、鹿島警察署にパトロールカーを寄贈した。信越半導体白河工場は1997年5月、工場発展の感謝の意を込めて、地元の西白河郡西郷村の小・中学校および文化センターに、図書とシャクナゲの成木などを寄贈した。
ほかにも前節で触れたとおり、1995年11月にプロジェクト21を発足させて、同プロジェクトチームによる21世紀ビジョンを策定したほか、1997年には金川社長と若手従業員との懇談会が創立70周年記念事業として行われ、社内の情報交流の促進を図った。福利厚生関係では、1998年6月に軽井沢契約保養所利用補助制度を新設した。
一方、1996年5月に株式分割を実施、1996年10月には当社ホームページを開設した。さらに主要顧客には1996年11月から3ヵ月間、毎月、鉢植えのフラワーギフトを宅配して感謝の意を表した。このように創立70周年記念事業は、株主、顧客、地域社会、従業員など、当社と関わる人々との結びつきを重視して行われた。
1998年8月、宮地敏次専務を委員長とする「2000年問題対策委員会」が設置された。2000年問題とは、コンピュータのメモリーが高価だった頃に、プログラム上の西暦年の表記を下2ケタで行っていたため、西暦2000年を迎えると1900年と2000年の判断がつかなくなり、日付を使った計算で誤作動が生じる可能性を指摘するものであった。
メインフレームやサーバー、パソコンなどの情報システムの分野では、1996年頃から対応が始まっていたが、すでにデジタル制御技術は、産業機械から家庭用電化製品に至るまで幅広い機器に取り入れられており、誤作動が発生するとその影響は極めて広範囲にわたることが懸念された。
しかも、どの機器でどのような問題が起こるのか事前に把握できないため、各企業では機器やプログラムを一つひとつ調査して、必要に応じて対策を施さなければならなかった。このため、対策完了までには相当の時間を要することが予想された。
当社でも1996年10月から、当社グループの情報システム部門を担当する子会社「スカイワードインフォメーションシステム」が取り組みを開始し、1998年から本格的な活動をスタートさせた。同年12月には各工場にも委員会を設置し、本社と連携して全社的な対応を図った。具体的には、社報などによる従業員への啓発を繰り返し行うとともに、経営陣とも連絡を密にしながら、テスト方法の標準化、対策完了ラベルの導入、誤作動が生じた場合の緊急対応計画の策定などを進めた。
その結果、1999年6月に、情報システム、生産設備、資材調達の各分野で対応を終え、緊急対応計画も完成し、一通りの対策が終了した。その後も1999年末まで、緊急時対応体制として、マニュアル類の整備、組織表や連絡網の確認、原料や部品、製品の備蓄計画の確認、2000年問題に起因する受注増への対応などについて見直しを重ねた。
1999年12月31日から2000年1月1日にかけては、2000年問題対策委員会をはじめとした一部従業員が出社し緊急時に備えた。このような対策を実施した結果、国内事業所、関係会社、海外拠点とも、大きなトラブルもなく乗り切ることができた。
続いて、問題が起こる可能性を指摘されていた2000年2月29日に向けて警戒を続けたが、ここでも問題は起こらず、2000年3月をもって2000年問題対策委員会を解散した。
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