信越化学工業は創立100周年を迎えました信越化学工業は創立100周年を迎えました
第3章

次代と世界を見据えて

改革に取り組む半導体事業

1995-1999

この章で知れること

  • 手を緩めず加速させた社内改革
  • 13期連続に及ぶ過去最高益の更新の始まり
  • 「Z委員会」の成果、フォトレジストの事業化

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改革に取り組む半導体事業

海外でも拡大する半導体事業

信越半導体犀潟工場

1993(平成5)年、1994年の世界の半導体デバイス市場は急速に伸展し、1995年には過熱状態に達した。
この間、信越半導体は、結晶引き上げ技術の進歩による生産性向上や、マレーシアのシャーラム工場の早期戦力化、さらには海外拠点間の効率的な流通によって、設備投資を最小限に抑えながら需要増に柔軟に対応した。
また、信越半導体グループ全体としては、世界のシリコンウエハー市場の25%を占めるトップシェア企業としての優位性を維持すべく、迅速な納品を求める需要家のためにリードタイムを一段と短縮するとともに、日・米・欧・アジアに展開するグループ各社の連携によって効率を高めた。
米国では、日本向け製品の生産を行って工場の稼働率を維持する状況が続いていたSEHアメリカで変化が生じた。同社のEPWがインテル社のMPUに採用され、インテルがその事業を拡大したため、業績が好転した。SEHアメリカは1995年1月、1995年から2000年までの6年間の投資額を7億ドルとする設備投資計画を対外発表した。8インチウエハーを中心とする旺盛な需要に対応するため、生産能力が月産50tのCZ法単結晶工場と、8インチウエハー換算で月産25万枚のウエハー加工工場を新設すると同時に、既存工場の設備更新を行うものであった。
SEHアメリカは1996年7月に8インチCZ法単結晶の新工場棟、1997年6月に8インチウエハー新工場棟を完成させた。しかし、これがのちに、半導体市況の急変と米国市場の構造変化によって、当社グループの半導体シリコン事業に大きな課題をもたらした。
アジアでは、1995年9月にマレーシアのSEHシャーラムで8インチ専用一貫工場の第2期工事が竣工し、月産13万枚の能力を持つ新鋭工場が完成した。9月9日、シャーラム工場の完成とSEHマレーシアの創立22周年を記念して、SEHシャーラムで記念式典を挙行した。
台湾では1995年11月、崇越科技など現地資本と合弁(信越半導体グループ70%、現地資本30%)で「台湾信越半導体股份有限公司」(SEH台湾)を設立し、翌1996年3月に、新竹科学工業園区で8インチウエハーの工場建設に着工した。生産能力は、操業開始当初は月産5万枚、将来的には月産15万枚まで増強する計画であった。同工場は1997年に完成、7月にオープニングセレモニーを開催して本格生産に入った。
台湾では、LED用化合物半導体を生産、販売する信越光電も1995年11月に社屋と設備を完成させ、1996年1月から生産を開始した。
欧州では、米国や日本、アジアより後れて、1997年から1998年にかけて8インチウエハー対応の半導体デバイス工場が完成し、DRAMは4M(メガビット)から16M、64Mへと世代交代が進んだ。シリコンウエハー市場も、6インチから8インチへの交代、PWからEPWへのシフトが加速した。
SEHヨーロッパは、1990年代に入ってから大規模な設備投資を実施した。しかし同社は日系半導体デバイスメーカーへの依存度が高く、また生産設備は6インチウエハーにとどまり、EPWの生産能力も不足し、苦戦を強いられていた。そのため、市場の変化に対応するには新たな設備投資が不可避であり、信越半導体グループは全社的な支援体制を敷いた。1997年7月には、リビングストン工場で進めていた第3期工場の建設工事が完成し、記念式典が行われた。この工場では8インチPWに加えて、新たに8インチEPWの生産も開始された。
こうした米国、アジア、欧州における設備投資と並行して、国内では信越半導体磯部工場で、1996年9月、隣接する横野平工業団地(群馬県安中市)に、新たな出荷センター「横野平PWセンター」が完成した。ここには、急増していた8インチウエハーの出荷業務の効率化と納期の短縮を図るため、製品の種類や数量を一括してコンピュータ管理する自動倉庫がつくられた。
1997年6月には、磯部工場で新2号館が完成し、手狭となっていた工場スペースを確保するとともに、単結晶の切断や加工など結晶加工工程の自動化を実施した。犀潟工場(新潟県上越市)では1998年7月、FZ室増築工事が完了した。これはディスクリート(注)ウエハー事業の拡大を目指して、1996年3月に始まった「Endeavor-2000(E-2000)プロジェクト」の一環であった。増築されたFZ室には、大口径、長尺に対応する新型FZ機が導入され、火入れ式が行われた。その後、犀潟工場は、直江津電子工業の拡散ウエハー工程と一体となって、直江津地区をディスクリートウエハーの生産拠点とすべく増強を進めた。
(注)ディスクリート:ダイオード、トランジスタ、サイリスタなど単一の機能を持った半導体デバイスのこと(個別半導体)。これに対して、複数の機能を統合して働かせる半導体デバイスがIC(集積回路)。FZ法単結晶は高耐圧、大電力が要求されるパワートランジスタやサイリスタなどに広く利用されている。

信越半導体G委員会が始動

信越半導体グループは世界規模で積極的な設備投資を展開し、1996年7月の段階で報告された信越半導体グループの設備投資5カ年計画(1996~2000年)では、総額3000億円を上回る規模に達していた。シリコンウエハー市場で世界トップシェアを維持し、さらに拡大するためには必要な投資であった。
計画では、設備投資に要する資金の大半はキャッシュフローの範囲内で賄えると見込まれていたが、投資規模が巨額なだけに、需要の振幅が激しい半導体市場にあって収益の予想に読み違いがあれば、信越半導体だけでなく、当社グループ全体にとっても大きな負担となる危険をはらんでいた。
1996年に入るとDRAMを中心とするメモリーの供給過剰感が出始め、市場の先行きが不透明となった。1996年6月に当社の電子材料事業本部長から信越半導体社長に転じた和田正専務は、当社をはじめグループ各社との緊密な情報共有のもとに、状況の変化に即応した迅速な意思決定を行い、設備投資を進めた。同時に、最小の投資で最大の効果を上げるべく、日・米・欧・アジアで重複した投資を避け、割高な設備投資の見直しなどを行った。
1996年の世界の半導体デバイス市場は前年比減少に転じたものの、信越半導体グループは好業績となり、当社の第120期(1997年3月期)連結決算に大きく貢献した。しかし、1997年から1998年にかけては、パソコン需要の低迷や携帯電話の普及が一巡したことなどから調整局面に入り、一部の半導体デバイスメーカーでは設備投資の見直し、減産、ライン閉鎖、撤退などの動きも出始めた。
1998年4月、第122期(1999年3月期)上期の収支予算の報告を受けた金川社長は、「信越化学では小柳副社長をはじめG委員会が献身的に合理化を進め、もはや合理化の余地がないように見えても続々と合理化が実現し、この6年間で1年分の経常利益に相当する合理化を行うことができた。信越半導体もまだ合理化の余地があるのではないか」と、いっそうの合理化に取り組むよう指示した。
このような環境のなか、1998年5月の時点で、1999年3月期の信越半導体グループの業績は大幅減益となる見通しとなった。これは信越半導体グループだけにとどまらず、当社グループ全体にとって大きな問題であった。当社の連結決算に対する信越半導体グループの寄与率は信越化学、シンテックとともに大きいからである。そのため、合理化によって経営体質をいっそう強化して、市場環境が変化するなかでも着実に利益を上げる基盤づくりが喫緊の課題となった。
1998年5月には、当社の小柳副社長が信越半導体の代表取締役会長に就任し、同年7月からは信越半導体G委員会のもとで、合理化を進めながら設備投資を行っていくよう、根本的に投資の進め方を改めた。
1998年の半導体デバイス市場は厳しい環境で推移し、シリコンウエハーは供給過剰の状態が解消されないままであった。かつてはスペシャルティ製品であったシリコンウエハーも、その一部は、需要家の値下げ要求に対応しなければ競合品に変えられてしまうようなコモディティ製品化しており、容易に価格競争に巻き込まれてしまうおそれがあった。こうした市場の変化や、シリコンウエハーに対する需要家の位置づけの変化を認識しつつ経営を見直さなければ、利益を上げることができない環境であった。
改革を本格化させた信越半導体グループは、1998年には日本とアジアでシェアを伸ばし、信越半導体グループの世界シェアの低下傾向に歯止めをかけることができた。
しかし、シリコンウエハーの供給過剰と市況の悪化は依然として続き、1999年3月期の信越半導体グループの業績は前年比大幅減益となった。1990年代前半の設備投資が、1997年以降の市況の悪化で大きな負担となって影響を及ぼしていた。
1999年6月、金川社長は、当社グループの設備投資について「信越半導体グループの今後の投資が最重要課題である。投資を行わないと半導体事業を続けられないが、投資のタイミングと方法を誤れば当社グループ全体に大きな影響をもたらす」として、経営判断の持つ重みと責任について改めて経営陣に注意を促した。
1999年6月には、小柳信越半導体会長が同社の社長に就任し、新しい経営陣は「小さな本社」を目指し、簡潔で効率的な経営体制のもとで、緊密なコミュニケーションと迅速な意思決定によって機動力に優れた経営を追求した。そして、当社への求心力を高めるとともに、グループ各社といっそうの連携強化を図り、基礎体力の強化を目指した。
同年8月には、東京・丸の内の東銀ビル8階と9階にあった本社機構を8階に集約、事務効率化と事務所関連経費の大幅な削減を行った。同時に組織の見直しも進めた。

300mmウエハーの新工場棟完成

信越半導体白河工場

薄膜SOIウエハーの製造工程

8インチウエハーがようやく半導体市場の主役の座に躍り出た1990年代の半ば、水面下ではすでに次世代ウエハーに向けての動きが活発化していた。1994年10月には、日本電子機械工業会(現・電子情報技術産業協会)などが「大口径シリコンウェーハ5団体連絡会」を設置し、12インチ(300mm)ウエハーが8インチに次ぐ次世代ウエハーとなることで、業界の合意が得られつつあった。
信越半導体ではこのような流れを受けて、300mm単結晶製造(半導体磯部研究所)、300mmウエハー加工(半導体白河研究所)技術の完成を目指し、研究開発に拍車をかけた。1995年7月、半導体磯部研究所に300mm単結晶の引き上げ機が導入され、300mm単結晶の生産技術の完成に大きく近づいた。
1990年代後半になり、300mmウエハーの仕様や製造・加工工程の標準化が進んでくると、需要家からサンプルが要求されるようになり、量産化への機運が次第に高まった。信越半導体にも顧客から供給の前倒しを求める声が出始めていた。
信越半導体は、他社に先行して300mm単結晶やウエハーの生産技術を開発していたが、量産設備の建設という点では優位性が確立できていなかった。信越半導体にとっては、開発した300mm単結晶製造とウエハー加工技術をベースに、設備投資を早急に進めなければならないことは明らかだったが、そのためには巨額の資金が必要であった。
そこで信越半導体は1997年、総額180億円の社債(私募債)を発行した。180億円という調達額は私募債としては非常に大型で、資本市場の注目を集めた。この社債は、国内格付機関である日本インベスターズサービス(現・格付投資情報センター)によって、当社グループの高い信用力を背景にAA-に格付けされた。
信越半導体は1999年10月、白河工場に300mmウエハーの量産化に向けて新工場棟を完成させた。翌2000年には、300mmウエハーの量産計画を対外発表するが、これについては次章で詳述する。
この間にも、300mmのさらに上を目標とする研究開発が進められた。1996年3月、信越半導体をはじめとする国内シリコンウエハーメーカー7社と特殊法人「基盤技術研究促進センター」の共同出資による「株式会社スーパーシリコン研究所」が設立された。1996年3月から2001年1月までを研究開発期間として、300mmウエハーの後継世代と目された16インチ(400mm)ウエハーの生産技術の確立を目指すプロジェクトであった。
日本のシリコンウエハーメーカーは世界をリードしてきたが、大口径化をはじめとする市場の大きな変動のなかで将来にわたり優位性を確保するには、巨額な研究開発費をはじめ解決すべき課題が多く、一企業で負担できる範囲を超えるものと見られていた。そこで、官民共同のスーパーシリコン研究所が設立され、世界に先駆けて400mmウエハーの技術の確立に取り組むこととなった。
このプロジェクトのために信越半導体は、1997年5月に横野平工業団地内に研究棟を新設し、スーパーシリコン研究所に貸与して、同研究所ではそこを拠点として研究開発に取り組んだ。
同研究所は直径400mm、重量438kgの単結晶と、400mmPWおよびEPWの生産に成功するとともに、300件に及ぶ特許を取得。1999年10月に成果報告を行って、研究開発活動を終了した。