

創業からの60年間の歴史
1926-1986
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鹿島工場に完成した塩ビプラント
1965(昭和40)年11月、当社は日信化学工業の全株式を取得して全額出資子会社とした。この結果、塩ビ業界における地位は大きく向上した。同じ頃、三菱油化(現・三菱化学)を中心に茨城県鹿島地区で国内最大級の石油化学コンビナートの建設計画が進められており、当社はそこへの参加を求められた。直江津工場のアセチレン法による塩ビモノマーは近い将来競争力がなくなることが予想されたため、当社はこれに参加する方向で検討を進めた。
エチレンと塩素を原料とする石油化学方式のエチレン法塩ビモノマー工場の建設は、1社では対応できない投資規模になることから、三菱油化、旭硝子、旭電化工業(現・ADEKA)、鐘淵化学工業(現・カネカ)および当社が共同出資して「鹿島電解株式会社」、「鹿島塩ビモノマー株式会社」を設立することで、1967年5月に最終合意に達した。一方、塩ビポリマーは当社独自の工場を建設することとした。このとき、鹿島電解と鹿島塩ビモノマーについて、両社で生産される塩素、か性ソーダ、塩ビモノマーの引き取り量と価格について、出資会社間で契約を締結したが、これがのちに大きな問題を引き起こすこととなった。
鹿島工場には130m²という、当時としては破格の容量を持つ塩ビの大型重合器が設置され、生産能力は年産20万tであった。当時の重合器の容量は通常20m²程度で、大型化が難しいとされた大きな理由の一つは、重合後の重合器の内壁に付着するスケール(重合製造残滓)落としに危険がともなうことであった。当社は、スケールを発生しないようにするノンスケール技術を世界に先駆けて完成することで、重合器の大型化を実現した。また、重合器の大型化により発生する膨大な反応熱を除去するための改良が加えられ、操業はすべてコンピュータ制御による全自動方式が採用された。1970年8月、同時に完成した鹿島塩ビモノマーから原料供給を受けて、鹿島工場は操業をスタートさせた。
鹿島進出計画と並行して、1967年11月から山口県南陽町(現・周南市)の南陽工場建設も進められていた。これは東洋曹達工業(現・東ソー)からモノマーの供給を受けて塩ビを生産する計画で、月産2000tの工場は鹿島工場より一足早く1968年7月に本格操業を開始した。こうして当社は生産能力を大幅に増強したが、その直後に、1971年のニクソンショックと原油価格高騰に見舞われた。
塩ビ業界では、1972年1月に再び不況カルテルを結成し、過剰設備の廃棄が決定された。当社はそのなかで鹿島への生産集中計画を打ち出すが、1972年後半から国内では列島改造ブームが起こり、塩ビの需要が急伸した。さらに、1973年には通産省からパイプ用塩ビの緊急増産要請が出された。
この結果、塩ビ業界による業界再編構想は不十分なまま立ち消えになり、その後の2度にわたるオイルショック以降、塩ビ業界は長い不況にあえぐこととなった。
シリコーン事業は、1967年6月にダウコーニング、GEの基本特許の多くが期限切れとなることを機に、新規参入や事業提携を検討する企業もあり、競争激化の時代に入った。
しかし、当社は独自路線の追求を決断、1966年7月に売上高倍増計画を決定し、5年後の1970年度(1970年6月1日~1971年5月31日)に売上高を倍増させることを目指して、工場設備の増強、独自技術の育成、新規製品の開発などに力を注いだ。この頃からシリコーンの需要先は、それまでの重電、繊維分野に、急速に成長を遂げた電子工業が加わり、この比重が年々増していった。
シリコーンにはさまざまな新しい機能が求められたが、研究棟の増設と研究員の増強を図ることで技術開発体制を強化して、市場の要請へのきめ細かな対応に努めた。
そうした努力のなかから、カラーテレビのオールトランジスタ化に寄与した低温硬化型液状ゴムやシリコーンモールディングコンパウンド、ジャンクションコーティングレジン、熱収縮ゴムチューブなどの電子工業向け新規製品が次々と生み出された。
さらに1969年から1971年にかけて40億円を投資し、柳瀬川南部地区への磯部工場の拡張、用水・排水設備の改善などを行った。こうして、営業、製造、研究が一体となって市場への対応を強化した結果、1972年度(1972年6月1日~1973年5月31日)には目標としていた売上高100億円を達成した。

初期のエピタキシャルウエハー
1965年1月からシリコーン事業に加えて半導体シリコン事業担当となった田村喜八取締役は、シリコーン事業で技術提携し親しい関係にあったダウコーニングと、相互の事業展開について討議を続けていた。その結果、1966年、ダウコーニングとの間で半導体シリコンに関する合弁会社設立の合意に達し、1967年3月に電子工業用シリコンの製造、販売を目的とした「信越半導体株式会社」が発足した。出資比率は当社55%、ダウコーニング45%で、資本金は3億円であった。
当初、半導体シリコンの需要の伸びは緩やかであったが、1970年代に入る頃からカラーテレビ、コンピュータ、電卓などの急速な普及にともない、同社の生産量、売上げも拡大した。このような好調な販売推移と需要の伸びを背景に、信越半導体磯部工場は1969年以降、大規模な設備投資を行い、多結晶シリコン、単結晶シリコンの生産能力を増強した。さらに、1970年には多結晶シリコンを手がける直江津工場、CZ法単結晶を手がける武生工場も生産を開始し、需要の急増に対応した。
当社の半導体シリコン事業は、その初期においてCZ分野に立ち後れがあったが、信越半導体は発足当初からCZ分野の増強に努め、後れを取り戻していった。そして、その後、FZおよびCZ法単結晶の大口径化に取り組み、技術開発と設備増強に力を注いだ。
単結晶シリコンの切断や研磨といった加工部門では、すでに1964年8月に不二越機械工業と共同出資で「長野電子工業株式会社」を設立し、加工製品の品質向上、コスト引き下げに努めていた。
長野電子工業は、その後、設備増強を進めたが、1960年代末からの急激なウエハー需要の伸びに対処するため、当社は長野電子工業と共同出資で「直江津電子工業株式会社」を設立(出資比率:当社90%、長野電子工業10%)、1970年2月から切断、研磨加工を開始した。信越半導体は1970年代に入ると、需要家の要請に応えて付加価値の高い製品づくりを目指した。たとえばウエハー加工分野では、三益産商(現・三益半導体工業)に加工を委託していたポリッシュドウエハー(PW)の新しい鏡面研磨方法や、ケミカルエッチング技術などが生まれた。さらにエピタキシャルウエハー(EPW)の生産にもいち早く取り組み、1973年8月には磯部工場に専用設備を立ち上げた。
1968年12月、当社はニチボーとの共同出資により「信越酢酸ビニル株式会社」、「ニチボーケミカル株式会社」(のち、ユニチカケミカル)の両社を設立した。前者は酢ビを、後者はポバールをそれぞれ生産することを目的として、大阪府堺市に工場を建設し、1970年7月には両社工場の合同完工式を行った。こうして有機合成事業の一つの柱と位置づけた酢ビ・ポバール事業は、堺に拠点を得て新たな歩みを始めた。
有機合成事業では、直江津工場で生産しているセルロース誘導体の新製品開発が活発に進められた。すでにメトローズの商品名で上市されていたメチルセルロースに、錠剤のバインダー、食品の添加剤などの新規用途が加わり、さらに新製品として左官用セメントモルタル添加剤「hiメトローズ」や、「TC-5」など医薬用フィルムコーティング剤も開発された。こうした新規用途開発で、1970年には月産100tの体制を確立し、セルロース事業を軌道に乗せることができた。
また、武生工場では1960年8月、メタルセンターに金属研究室を設置してレア・アースの研究に取り組んでいたが、カラーテレビの赤色蛍光体の原料として酸化イットリウムが注目されるようになった。そのため、当社も1960年代後半、武生工場にイオン交換法のパイロットプラントを設けて試作に取り組み、1967年6月から本プラントでの生産を開始した。
しかし、需要は思ったように伸びず、1970年以降、レア・アースの応用製品としてレア・アースマグネットの事業化が検討された。その成果として、1973年には時計用のセリウム・コバルト磁石の量産を開始し、翌年にはサマリウム・コバルト磁石を上市した。
当社は、1960年代後半に事業構造の大転換を期して、塩ビ、シリコーン、半導体シリコンなどの積極的な事業拡大を進めた。そして、1970年代に入るといっそうの経営強化に向けて、既存事業の拡大だけでなく、付加価値の高い新規事業への進出を目指した。
そのための臨時組織として1970年10月に、常務委員会に属する「70年代開発委員会」と、新規事業の調査・研究に取り組む「テーマ選択委員会」を発足させた。テーマ選択委員会は、石英ガラス、レア・アースマグネット、薄膜フィルムなどを事業化すべき有望なテーマと認め、以下に紹介する信越石英および信越フィルムの誕生につながった。
半導体用単結晶シリコンの生産が本格化するのにともない、信越半導体では生産工程で用いる石英るつぼをはじめとした石英ガラス製品の購入量が増加した。それらは、いずれもケイ素関連製品であることから、当社は事業化の可能性を模索し、購入先のドイツのヘレウスクワルツグラス社(以下、ヘレウス)に日本での事業化に向けた提携を働きかけた。そして、1972年2月に、ヘレウスとの折半出資で「信越石英株式会社」を設立した。
同社は1972年8月、埼玉県入間市に加工工場を設置して、石英ガラスの加工から始まり、同年11月には信越石英武生工場を建設して石英るつぼ、チューブの生産を開始した。当時は半導体産業が発展の緒についた時期であり、その後、半導体産業の急成長とともに広く需要家の開拓を進め、業績向上に努めた。
一方、薄膜フィルムについては、1973年12月に、当社とGEの折半出資で「信越フィルム株式会社」が設立された。この薄膜フィルムは、1971年10月にGEと締結したOPPフィルム輸入販売契約に基づき市場開発を進めていたもので、テーマ選択委員会の決定により、武生に工場を建設することとなった。
これは、当時、需要拡大が見込まれた最先端の高圧電力用「All-PP(ポリプロピレン)タイプ」コンデンサーに不可欠な「ヘイズ(Haze)フィルム」(くもりのあるフィルム)を生産するのに最適なプラントで、この新フィルムは同社が世界で初めて量産化に成功したものだった。ニクソンショックやオイルショックの影響で、操業開始は当初の計画より遅れて1976年7月となったが、安全性が問題になり始めたPCBを使わないAll-PPタイプコンデンサーとヘイズフィルムは日本、台湾、韓国、インドで採用され、その後イタリアなど全世界で採用されたため、事業は順調に成長した。
信越フィルムには1976年1月に三菱レイヨンが資本参加し、当社および三菱レイヨン各42.5%、GE15%の出資比率となったが、1977年8月に当社の全額出資子会社となった。1978年12月には、中国でも、この新フィルムの製造技術は世界最先端と認められ、中国技術進口総公司との間でヘイズフィルム製造プラント輸出契約に調印した。そして1980年10月、四川省綿陽市に工場が完成した。

建設中のシンテック塩ビプラント

ニカラグアのポリカサ
1967年9月、当社はニカラグアに合弁会社、「ポリカサ社」を設立し、中米市場向けに塩ビおよび塩ビコンパウンドの生産をスタートさせた。ポルトガル、ペルーに続く第3番目の海外合弁会社であった。
その後1970年代に入ると、鹿島工場の大型重合器を使った塩ビ製造新技術は、世界の注目を集めるようになり、先進国向けの技術輸出が相次いだ。
重合器内にスケールが付着しない独自のノンスケール技術、コンピュータ制御による完全自動制御、大型プラントを安全に操業するノウハウ、優れた品質などが高く評価された結果であった。当社の塩ビ技術・プラント輸出は、国内の塩ビ事業が厳しい環境下に置かれた時期も、業績を支える重要な役割を果たした。
当時、一連の合弁会社設立や技術・プラント輸出の陣頭指揮を執っていたのは、金川千尋海外事業本部長であった。金川事業本部長は1971年のニクソンショック以降、国際通貨危機の際には円建て方式を採用してリスク回避に努めるなど、契約条件をきめ細かく配慮したうえで海外企業との交渉にあたり、成果を上げていた。
また金川事業本部長は、技術・プラント輸出を通じて、ダウケミカルのブランチ氏(C.Benson(Ben)Branch:ダウケミカル社長、会長を歴任)や、ポーランドのオルシェフスキー氏(JerzyOlszewski:ポーランド経済企画庁長官、化学工業大臣、貿易海運大臣などを歴任)をはじめとする国際的人脈を築いていた。
金川事業本部長がとりわけ注目していたのが、米国での事業展開であった。わが国の化学メーカーが、化学工業先進国の米国に進出することなど、ほとんど考えられない時代であったが、ポリカサへの塩ビモノマー供給などで当社と親交を深めていたダウケミカルは、当社の技術力や実績を高く評価し、米国の塩ビ事業への参入を勧めていた。
そのような折、米国最大手の塩ビパイプメーカーであったロビンテック社から当社に提携の申し入れがあった。金川事業本部長はこれを受けて渡米し、交渉にあたった。当時、当社内には、国内外の経済情勢の悪化から慎重論もあったが、ダウケミカルとの長期にわたる原料の供給契約をはじめ、周到なリスク回避対策を進め、事業計画の具体的な見通しを立てて契約交渉を進めた。
交渉開始から1年を経た1973年7月、塩ビの生産・販売を行う合弁会社の設立に関する契約調印が行われた。ここに出資額500万ドル、当社とロビンテックとの折半出資で、両社が対等の立場で経営にあたるという条件のもと、「シンテック社」が発足した。
同社はテキサス州フリーポートにあるダウケミカルのコンビナート隣接地に工場を建設し、当社は新技術を供与するとともにプラント設計から建設、操業に至るまでの一切の指導にあたった。生産能力は年産10万tで、これは当時の米国塩ビメーカー21社のうち13位であった。
工場は翌1974年10月に操業を開始し、12月には竣工式を迎えた。式当日には工場建設の関係者に加え、米国の塩ビメーカーや当社の塩ビ新技術に関心を寄せる多くの企業からも出席者が集まり、盛大な船出となった。
1960年代後半、シリコーンおよび半導体シリコン事業が成長していくなかで、当社は既存のカーバイド・石灰窒素事業の合理化をはじめとした事業の見直しを進め、前述のとおり事業構造の大転換による高効率経営を目指した。そして、直江津、武生両工場の体質強化、グループ各社の強化などに取り組んだ。
グループ会社には当時、日信化学工業、信越ポリマー、信建産業、信越金属工業、信越半導体などがあった。各社は当社との連携を強化し、グループ全体の経営効率化を図るとともに、それぞれ目標を掲げて体質強化に励んだ。
また、石灰石の採掘にあたっていた親不知鉱業所の合理化を進めていたが、1970年に武生工場の石灰窒素と日信化学工業の塩ビが生産中止となり、さらに1973年10月28日には直江津の塩ビ工場で爆発事故があったため、石灰石は塩ビ用アセチレンの原料としての需要がほとんどなくなった。当社およびグループ会社への石灰石供給先は、直江津工場の石灰窒素用のみとなったため、当社は1974年1月、親不知鉱業所を閉鎖した。
こうした一連の事業の再構築とともに、1968年6月、事業本部制の導入を決定した。これは経営の効率化と迅速化を図り、各組織ごとに経営マインドをもって事業に取り組むことを目的としたもので、化学、有機合成、珪素、海外の4事業本部と工務本部からなり、各事業本部は営業・製造・研究の機能を備えていた。また、各工場は事業内容ごとに事業本部に属することとなった。このような抜本的な組織改定は当社始まって以来のものであったため、6ヵ月間の準備期間を置いて、同年12月から正式に発足させた。
人事面では、1960年代後半から始まった鹿島、南陽、堺といった新拠点への進出にともない、既存工場から新工場への人員の移動が不可欠となった。人員の異動や事業構造の大転換を労使の信頼関係のもとで円滑に進めていくため、1968年10月には労使間で完全雇用に関する協定を結び、会社と従業員の信頼関係の上に立った事業の推進に努めた。

信越石英武生工場
当社は事業体制の整備とともに、直江津、武生両工場を中心に体質強化に取り組んだ。とりわけ武生工場は、1970年5月の石灰窒素生産の直江津工場への集中、1971年7月のカーバイドの生産中止によって主力事業を失い、早急な体質転換が求められた。このため、1971年10月に「武生対策委員会」が設置され、既存事業、新規事業、人員対策の検討が進められた。同委員会は現有製品のなかでは、レア・アースを積極的に育成する方針を示し、武生工場では前述の酸化イットリウム、次いでマグネット事業を本格化させた。また、1973年にはシリコーン事業(一液型シリコーンRTVゴムおよびオイルコンパウンド生産)も導入し、再建計画の一翼を担うことになった。これと前後して、1970年7月に信越半導体、1972年11月に信越石英、そして1976年7月に信越フィルムが、相次いで武生に工場を完成させ、グループ一体となった武生工場の支援も進められた。
一方、1972年3月には「直江津対策委員会」も設置され、堺への進出にともなう酢ビ・ポバールの撤収、天然ガスアセチレン工場の停止、石灰窒素合理化の方針が打ち出された。既存事業のうち塩ビは特殊塩ビに特化することで収益を改善し、セルロース誘導体、トリクロロシラン、金属ケイ素の収益増加を図ることとなった。
事業構造の改革が進んでいた1971年7月、小坂徳三郎社長は政界進出にともない取締役最高顧問となり、小林周蔵副社長が社長に、小田切新太郎専務が副社長にそれぞれ就任した。同年8月には本社を東京都千代田区大手町にある朝日東海ビル(現・朝日生命大手町ビル)に移し、事業拡大とともに分散していた事務所の集約化が図られた。
こうして、さらなる改革に向かおうとしていた矢先の1973年10月28日午後3時30分頃、直江津で塩ビモノマー工場爆発事故が発生した。被害は半径2km以上に及び、従業員1名が死亡、6名が重傷を負った。また、近隣住民を含め17名の軽傷者があったほか、民家、公共施設約660戸で窓ガラスが割れるなどの被害が出た。
小林社長が陣頭指揮を執り、10月29日に現地に総合対策本部を設置し、事故後、被災住民への陳謝、補償などに迅速に対応した。同時に、小林社長の判断により直江津工場の全部門の操業を停止し、根本的な事故原因の究明に取り組んだ。 さらに通産省の「事故調査委員会」も設けられ、設備管理、日常の教育・訓練などに対する厳しい指摘がなされた。そのほか、通産省立地公害局、新潟県などから保安管理体制にさまざまな改善勧告、改善指示を受けた。
当社は、これらの指示、勧告を全面的に受け入れ、保安対策の再構築に力を注いだ。そして、直江津工場以外の全工場、全部門でも保安対策の見直しを進め、安全教育、操業指導の強化を図った。
この事故後、安全操業の再確認を進めながら、1974年2月までに塩ビを除く直江津工場の全部門は操業を再開したが、1976年2月、当社は直江津工場での塩ビ工場再建計画の中止を決定した。
このような経営環境のなかで当社は1970年代後半を迎えた。オイルショックなど内外の経済情勢は激しく変動し、よりいっそう厳しい姿勢で局面打開に努めることになった。
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