

国際変動化のなかで
1987-1989
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信越半導体磯部工場の新1号館
1980年代前半まで好況であった半導体関連事業は、1985(昭和60)年に入るとシリコンサイクルと円高不況に見舞われた。さらに、翌1986年も深刻な状態が続いた。信越半導体グループは、米国のオーチャード工場(1984年2月稼働)をはじめ、福島県の白河工場(同年12月稼働)、新潟県の犀潟工場(同年12月稼働)と、大型投資を実施した直後であっただけに、厳しい対応を迫られた。
1986年10月、信越半導体グループの問題を検討する会議の席上、小坂社長は、深刻な半導体不況が当社グループ全体にとってもっとも重要な問題であるとの認識を示した。そして、「信越半導体グループは、1986年度は経常利益を前年度比35億円改善、1987年度は経常利益を同50億円改善する」という数値目標を提示して、その早急な実現を指示した。
これを受け信越半導体グループは、営業、製造、研究が一体となって世界市場におけるシェアの確保を図るとともに、生産性や品質の向上による競争力の強化に取り組んだ。その一環として信越半導体は1986年11月に組織改編を実施し、営業本部と技術本部を新設、技術本部が営業本部を強力にサポートし、顧客の要望に合う製品を迅速に供給する体制を整えた。さらに同社は、各工場の位置づけや役割分担の見直しと明確化を図った。この結果、磯部工場は本社機能をあわせ持った工場となり、半導体研究所という研究開発機能を擁するとともに、エピタキシャルウエハー(EPW)の生産基地として位置づけられた。また、武生工場はCZ法単結晶の量産工場、白河工場はCZ法単結晶からウエハーまでの一貫生産工場であると同時に、加工研究機能を擁する工場となった。
海外の工場については、SEHマレーシアはポリッシュドウエハー(PW)の量産工場であり、円高状況を有利に活用できる生産拠点であること、SEHアメリカは海外市場向けの生産・販売基地であるとともに、日本国内およびマレーシア向けCZ法単結晶の供給基地、日本国内向けのEPW供給基地であることを確認した。犀潟工場と磯部工場で行っていたFZ法単結晶の生産は、犀潟工場に集中した。
信越半導体グループは、1987年5月期決算で、小坂社長から示された利益改善目標を達成した。引き続き1987年後半以降も回復基調は維持され、1988年5月期には改善目標をクリアするとともに、信越半導体グループ全社が黒字に転換した。

信越半導体磯部工場の新1号館
半導体市場は1987年後半には需要回復の兆しが見られた。1988年は国内ではパソコンの販売が好調で、4M(メガビット)DRAMの増産への期待ともあいまって活気を取り戻していった。しかし、1980年代前半に多くの企業が新規参入したこともあって、依然として激しい競争の渦中にあった。シリコンウエハーは大口径化が急速に進んでおり、主力は直径6インチから8インチへと移行しようとしていた。同時に半導体デバイスの微細化が進むなか、単結晶、ウエハーともに高度な品質を要求された。
このため信越半導体グループは、ウエハーの需要が伸び始めた台湾と、半導体デバイスメーカーの成長著しい韓国というアジア市場への対応を強化するとともに、研究と生産の両面から大口径化、高品質化への対応を進めた。また、長期的視点に立った技術開発を推進し、独自の技術を駆使した高機能、高品質の製品づくりを通じて、競争力の確保に力を注いだ。なかでも信越半導体磯部工場で生産しているEPWは、その将来性を予見した同社がいち早く事業化し、1967年3月には所掌のEP課も設置された。1987年になると、いっそうの能力増強が必要になったが、すでに同工場には新たな敷地がなく、このため老朽化しつつあった磯部工場1号館(以下、旧1号館)を取り壊し、その跡地に新たな生産工場(以下、新1号館)を建設することとなった。
旧1号館は、1960年、当社が半導体シリコン生産工場として建設したもので、いわば半導体事業発祥の地であった。そして、1967年3月に信越半導体が設立されると、旧1号館は同社に引き継がれ、同社磯部工場の顔となった。同工場では、CZ法単結晶、FZ法単結晶などの基礎を確立し、CZ法単結晶は武生工場、白河工場、SEHアメリカに引き継がれた。FZ法単結晶は、犀潟工場への生産集中が決定したため、磯部工場での生産は1987年3月に終了し、同年7月に解散式が行われた。1988年1月に旧1号館が解体されると、引き続き新1号館の建設が進められ、同年11月には新1号館の落成式を迎えた。新1号館は、高品質EPWの生産を目指して、グレードの高い空調や超純水を供給できる最新鋭のユーティリティ設備を備え、クリーンルームの清浄度(注)も従来のクラス10000からクラス1000に向上した。また、自動搬送システムや生産設備の自動化や省力化も推進された。新工場(新1号館)は、1988年12月に火入れ式が行われ、本格稼働した。新1号館では、埋込拡散工程で世界で初めて6インチウエハーのアンチモン拡散に成功した。1989年3月にはサンプル出荷を行い、拡散ウエハーの分野でも大口径化を実現した技術力を大いにアピールした。一方、1989年には、白河工場の敷地内でウエハー加工を担当する半導体白河研究所の建設を開始した。同年12月に建屋が完成したあと、クリーンルームの設置や研究機器の据付け工事を行い、翌年6月には竣工式を迎えた。当時、半導体デバイスの微細化が進むなかで、単結晶だけでなく、ウエハーでも高クリーン度、無歪性、高寸法精度などの要求が高まっていた。同研究所では、加工技術の高度化、加工工程の自動化などの研究を進めた。こうして信越半導体は磯部、白河の2研究所体制となった。半導体磯部研究所はシリコンと化合物半導体の結晶、EP、結晶性評価を担当し、半導体白河研究所は加工、表面特性評価を担当するという形で分担し、需要家の要望に効率的かつ迅速に対応する体制を整えた。白河工場は、1990年1月に、生産性を高めた8インチ専用の大型引き上げ機を導入し、8インチ時代の本格的な到来に備えた。
(注)清浄度:クリーンルームにどの程度の粉塵を許容するかの指標。1立方フィート当たりの空気に粒径0.3μm(マイクロメートル)の粉塵が何個あるかを数字で表す。マイクロメートルは国際単位系(SI)の長さの単位。1μmは0.001mm、1000nm(ナノメートル)となる。

SEHヨーロッパのリビングストン工場
米国でも、シリコンサイクルによって半導体市況には振幅の大きな波が襲った。SEHアメリカは、こうした外部環境の変動に加え、オーチャード工場建設に着手後、需要が急増したため、計画を変更して生産能力を2倍近くまで拡大させた経緯があった。SEHアメリカは収益改善へ継続的な努力を重ね、市況も1987年に入ると徐々に回復の兆しを見せ始めたものの、大型投資の影響は払拭されず、厳しい経営状態を脱することはできなかった。
そのようななか、小坂社長は、当社グループにとってSEHアメリカの収益の早期改善と累損一掃が最大の課題であるとして、引き続き経営努力を求めた。これを受け、同社は品質の向上、顧客との信頼関係の構築、生産性向上などに努め、着実に収益力を改善し、1988年3月期決算で黒字に転換した。
一方、SEHヨーロッパは、1985年1月から英国スコットランドのリビングストン市のリビングストン開発公社所有の工場建屋で、ディスクリート用シリコンウエハーの生産を行っていた。しかし、1987年に入って欧州の半導体市場が好転したこともあり、欧州での事業拡大を目指して自社工場の建設を決定した。
その背景には、当時、スコットランド省がハイテク産業を熱心に誘致しており、米国西海岸のシリコンバレーのような「シリコングレン」(「グレン」はスコットランド古語で「渓谷」の意)の形成を推進していたことがある。リビングストンは、そのシリコングレンへのシリコンウエハー供給に好適の地であった。
自社工場では、引き続きディスクリート用シリコンウエハーの生産を進めるとともに、IC用への進出も視野に入れた計画がなされた。これを受け、欧州でのIC用PW拡販に向けて、PWの検査設備と洗浄工程が新設された。
こうしてリビングストン工場は約1年の工期で第1期工事を1988年11月に完成、12月から本格操業に入った。新工場への期待は高く、1989年4月に開催された開所式は、スコットランド省や在英日本大使館からも来賓を迎え、盛大なセレモニーとなった。
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