信越化学工業は創立100周年を迎えました信越化学工業は創立100周年を迎えました
第3章

次代と世界を見据えて

世界が注目する優良企業へ

1995-1999

この章で知れること

  • 手を緩めず加速させた社内改革
  • 13期連続に及ぶ過去最高益の更新の始まり
  • 「Z委員会」の成果、フォトレジストの事業化

1

世界が注目する優良企業へ

創立70周年、最高益を更新

決算説明会終了後も、アナリストの質問に応じる金川社長(1997年5月)

1993(平成5)年後半から日本経済は緩やかな景気回復傾向をたどり、1994年6月27日に東京外国為替市場で米ドルは100円を割り込んだ。その後も円高の勢いは衰えることなく、1995年4月19日には1ドル79.75円という史上最高値を記録した。
これに加え1995年1月以降、阪神・淡路大震災(1月17日)や地下鉄サリン事件(3月20日)などの発生によって社会的な不安が高まり、金融機関の不良債権処理問題とも相まって、日本経済に再び先行き不透明感が広がった。
国内企業の多くは経営基盤の再構築に向けて、経営資源の集中、人員整理などを本格化させ、リストラクチャリングに由来する「リストラ」が流行語ともなった。
また、多くの製造業が国際競争力を確保するため、生産拠点の東南アジア移転や事業提携、M&Aを進めるなど、わが国の産業構造は大きく変化しつつあった。
当社はそのような多くの企業の事業再構築に先んじて、1990年以降、営業、製造、研究にわたる業務の効率化とコスト削減、新規採用人数の抑制、自動化・省力化への積極投資、新規事業育成などに取り組み、企業体質の強化を計画的に推進した。その努力が実り、1990年代半ばには成果が出始めていた。
第118期(1995年3月期)連結決算は、売上高5229億円(前年比12.6%増)、営業利益475億円(同59.3%増)、経常利益459億円(同62.6%増)、当期純利益268億円(同53.1%増)と大幅な増収増益となり、単独決算でも売上高、営業利益、経常利益、当期純利益とも前年度を上回った。
1995年6月、長年にわたり当社の経営にあたってきた小坂徳三郎代表取締役会長、小田切新太郎取締役相談役が退任した。当社グループは金川社長のもとで改革を加速させて、社会や経済環境の変化に即応しながら業務に邁進していった。
市況をはじめとする事業環境は、変化の速度のみならず、振幅の大きさも増しており、金川社長は、このような状況下では「朝令暮改は当然」として、過去の経緯にとらわれず変化に機敏に対応することを全従業員に求めた。そして創立70周年にあたる1996年を迎え、金川社長は社報『信越化学』1996年1月号の「年頭メッセージ」で次のように語った。
「今年、1996年に信越化学は創立70周年を迎えます。この10年間に当社グループの連結売上高は3800億円から5229億円に、当期純利益は184億円から268億円に成長いたしました。日本経済がバブルに浮かれ、そしてその崩壊に苦しむなか、着実に業績を伸ばすことができましたのは、会社の正しい施策と、その施策を現実のものとされた皆さんの努力の賜物であると考えます」。
また、小坂善太郎取締役相談役は、1996年1月の本社年賀式で、「明るい心持ち、人の輪、努力の3つがどんな時代にあっても必要」と述べ、悪条件を打ち破る「ファイティングスピリット」や社内融和の重要性を強調した。
企業体質の強化に向けた改革は、社内における長年の慣行や組織風土の変更さえも必要とし、「痛みをともなう」面を避けて通ることはできなかった。そのため、会社の施策が全社に浸透するには時間を要した。
1990年以降、相次いで設置された営業資金効率化委員会、経費効率化委員会、G委員会など、業務のあり方を根本から見直す複数の粘り強い取り組みが、後述するように事業の効率化、合理化のみならず、従業員一人ひとりの意識改革を促す役割をも果たした。その結果、営業、製造、研究のあらゆる現場で、施策を実現しようとする従業員の真剣な努力を引き出し、実効性のある改革を生み出した。
第119期(1996年3月期)においても厳しい経営環境は依然として続いていたが、当社は連結決算、単独決算ともに増収増益となり、連結決算では売上高、営業利益、経常利益、当期純利益とも過去最高となった。

さらに第120期(1997年3月期)連結決算でも、前期に引き続き、売上高、営業利益、経常利益、当期純利益ともに過去最高を更新し、日本経済がデフレスパイラルの危機に直面していたにもかかわらず、ひときわ好調な業績を内外に印象づけた。こうしたなか小坂徳三郎最高顧問が、1996年2月23日、急性心不全のため、神奈川県川崎市の虎の門病院分院で急逝した。80歳であった。
小坂最高顧問は1916(大正5)年、長野県長野市に生まれ、東京帝国大学経済学部を卒業後、朝日新聞社の記者を経て1949(昭和24)年に当社に入社、1956年7月に代表取締役社長に就任した。シリコーンの事業化、塩ビ事業への進出などを決断し、当社事業の基礎づくりに大きな役割を果たした。
その後、政界転出によって1971年7月に代表取締役社長を辞して取締役最高顧問に就任、1973年11月に取締役を辞任して翌年12月に最高顧問となった。

一方、国政では、総理府総務長官・沖縄開発庁長官、経済企画庁長官、運輸大臣と閣僚を歴任し、1988年11月には勲ー等旭日大綬章を受章した。
3月26日、当社グループと信濃毎日新聞社、信越放送の3社が主催する「有志によるお別
れ会」が東京都千代田区のパレスホテルで開かれた。会場では土井たか子衆議院議長、豊
田章一郎経済団体連合会会長、作家の城山三郎氏が故人の思い出を語るなど、小坂最高顧問の幅広い交友関係が偲ばれた。

偉大な先達を相次いで失う

中国への塩ビ技術・プラント輸出実現に向けて訪中した小田切社長(1982年10月、左は中国側交渉責任者の関毅氏)

信越半導体の全株式買収の調印を行う小田切社長(左)

こうして当社は1997年以降も、新しい時代に対応した改革を進めたが、この間に、当社事業の発展に尽くした小田切相談役、シンテックのブランチ取締役の悲報が届けられた。
1997年4月17日、小田切新太郎相談役は呼吸不全のため、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で急逝した。89歳であった。
小田切相談役は1907(明治40)年、長野県須坂市に生まれた。早稲田大学商学部を卒業後、1936年に当社に入社。1948年6月に取締役に就任し、その後、常務取締役、専務取締役、代表取締役副社長を歴任、第1次石油ショックが起きた直後の1974年7月に代表取締役社長に就任した。当時、当社の経営は極めて厳しい状況にあったが、1976年7月のシンテックの全株式買収、1979年6月の信越半導体の全株式買収と、2つの大きな決断を下した。
両社の株式買い取りに要した金額は、いずれも当時の当社の規模や資金力から見て極めて大きく、当社の浮沈にも関わる問題であったため、社内には反対論も強かった。しかし、将来の発展のため、これらの買収は不可欠との判断から、シンテックは金川取締役、信越半導体は田村専務という、それまで両社の経営を執行してきた責任者に全幅の信頼を寄せて一任。全株式買収と、買収後の両社の経営を成功に導いた。小田切社長のこの決断が、1980年代以降の当社の成長の礎となった。
1983年8月、当社の事業基盤の強化が進み、業績が成長軌道に乗り始めたのを機に、小田切社長は、「今日のように激しく揺れ動く経済社会においてもっとも必要なことは経営の若返りである」として社長を退き、小坂雄太郎社長、田村、金川両副社長という新しい体制を選任するや、自身は代表取締役会長として経営のサポート役に回った。
その後、1987年8月には代表取締役会長を辞任して取締役相談役に、1995年6月には取締役を辞して相談役になったが、一貫して当社経営陣を支え続けた。
1990年8月21日に小坂雄太郎社長が急逝した際、後任に選ばれた金川社長の経営手腕に信頼を寄せ、全社一丸となって成長・発展への取り組みに専念できるよう尽力した。
なお、社長を退いた直後の1983年11月には、優れた会社経営によってわが国化学産業の発展に尽くした功績が認められ、勲二等瑞宝章を受章。逝去後の1997年5月には、改めて生前の功績を多として従四位に叙せられた。さらに同月、東京国税局長から、丸の内法人会役員を務めるなど多年にわたり税務行政に貢献したとして、感謝状が贈られた。
小田切相談役の通夜と告別式は、故人の遺志により近親者のみの密葬として、東京都中央区の築地本願寺で4月19日、20日に執り行われ、5月28日には、東京都港区の増上寺で社葬が行われた。
葬儀委員長を務めた金川社長は、弔辞のなかでその業績と人柄を偲び、「小田切相談役こそ、本当の意味での『当社中興の祖』として、当社の歴史においてその名を永久に残され、最大の栄誉をもって語り継がれるべき経営者であると確信しております」と語りかけた。そこには、小田切相談役の決断によって「日本の一地方会社にすぎなかった当社が、今日、『国際優良会社』と呼ばれるまでに発展した(社報『信越化学』1997年4月号「追悼」)」との思いが込められていた。
小田切相談役急逝の悲しみもさめやらぬ1997年10月4日、米国テキサス州からシンテックのブランチ取締役逝去の報が届いた。82歳だった。テキサス州サンアントニオ市のSantaRosaNorthwestHospitalで肺炎の療養中であった。
ブランチ取締役は米国ネブラスカ州オマハ市に生まれ、1937年にオハイオ州クリーブランド市のWesternReserveUniversityを卒業後、ダウケミカルに入社、同社の国際展開に大きく貢献した。
1970年から1976年までダウケミカルの社長(CEO)を務め、社長在任中の1975年には、ダウケミカルが米国の『Dun'sReview』誌から「FiveBestManagedCompanies(優良経営5社)」の1社として表彰された。また1976年には、ブランチ社長自身が、米国の『FinancialWorld』誌の「ChiefExecutiveoftheYear(今年のもっとも優れた経営者)」に選ばれるなど、名経営者として高く評価された。
1989年には、同じく『FinancialWorld』誌の「ChiefExecutiveoftheDecade(過去10年間でもっとも優れた経営者)」にも、クライスラー社のリー・アイアコッカ会長(LidoAnthonyIacocca)、ウォルマートストア社のサム・ウォルトン会長(SamuelMooreWalton)とともに選ばれた。
1980年、ダウケミカルを退職後、シンテックの求めに応じて同社の取締役に就いた。また1990年にはシンエツインターナショナルヨーロッパの会長に就任。さらに1997年、当社が米国に持株会社を設立する際には、当社の将来のあらゆる事業展開を包括する普遍的な名前という観点から、「S-EInc.」という社名を考案し、同社の社長に就任していた。
国際的な化学事業に精通していたブランチ取締役は、亡くなる直前まで、シンテックや当社の発展について的確な助言を行っていた。同氏の逝去により、当社はもとより、当時、第2の拠点づくりを進めていたシンテックにとって、かけがえのない存在が失われた。

「経費効率化委員会」の設置

経費効率化の一環として1フロアに集約した大阪支店 (1996年10月実施)

1995年から1999年にかけて、当社は強固な企業体質づくりに向けて、引き続き効率化、合理化に力を注いだ。これらについては、営業資金効率化小委員会、経費効率化小委員会の両小委員会を委員会に昇格させ、G委員会とともに継続的な取り組みを進めた。
1995年11月、間接部門の合理化、省力化をさらに強化するため、1993年4月に設置していた経費効率化小委員会を「経費効率化委員会」に発展させた。委員長には金児昭常務が就任し、委員は各事業部の担当役員など9名、事務局は経理部とした。また小柳、若杉両副社長が活動全般をアドバイスする体制をとった。
同委員会は「高い機能で小さな本社費を目指す」とし、国際競争力を高めるために、当時、年間約250億円だった本社費を50億円節減することを目標に、以下の方針のもとで改革に着手した。
1組織の簡素化・スリム化を図る。
2特に間接部門(事業部の間接部門を含む)の合理化・効率化に注力する。
3営業部門、支店・営業所についても同様に合理化・効率化を進める。
4仕事のやり方について意識の改革を進める。
5全部門とも公平に進める。
6担当部門のトップが責任をもって実行する。
7雇用を守りつつ人件費の効率化に全社的に取り組む。
1995年度後半から1996年度にかけて、組織の簡素化のために思い切った組織の統廃合を進めるとともに(注)、諸制度の見直し、業務の効率化およびシステム化などを実施した。当社の経費効率化活動についての基本的な認識は、「国際競争力を高めていくには思い切った効率化が必要だが、効率化によって必要なものまで萎縮させ、成長の芽を摘むことがあってはならない」というものであった。そのため、場合によっては経費の増額や人員の増員を認め、弾力的に進めることに留意した。
こうして第123期(2000年3月期)の本社費は、第119期(1996年3月期)に比して約59億円減少し、当初の目標を達成した。
(注)このとき、以下のような組織統廃合が実施された。
<1995年11月>
・経理部と財務部→経理部
<1996年1月>
・大阪支店シリコーン第1部と第2部→シリコーン部
<1996年4月>
・研究開発部と特許部→研究特許部
・環境保安部と技術部→環境保安技術部
・秘書室と総務部と人事部→総務人事部
・社長室と広報部と関連事業部→社長室
・精密材料事業部事業部長室→廃止
・シリコーン事業本部3部門13部(室)制→4部制

「営業資金効率化委員会」と「G委員会」

営業資金効率化小委員会

営業資金効率化小委員会も「営業資金効率化委員会」と発展的に改められた。そして、引き続き、在庫の圧縮、代金回収日数の短縮といったきめ細かな活動を積み重ねるとともに、物流管理のコンピュータ化などにも取り組んだ。第121期(1998年3月期)には、改善額年間200億円という大きな目標を達成し、その後も継続して成果を維持することに努めた。
営業資金効率化活動は、手元資金の増加という資金面での貢献だけでなく、従業員の意識改革にも大きな役割を果たした。1996年6月の常務委員会における営業資金効率化委員会の報告で、委員長の和田常務は「本運動の波及効果」として「在庫、物流、資金のリードタイム、手形、債権回収、売掛残、与信、担保などについての認識が全社に浸透した」ことを挙げた。
極めて地道な取り組みであるが、具体的な効果が金額で確認できるため、在庫管理、デリバリーなどの業務の重要性を従業員が客観的に捉え直すきっかけとなった。この点については1999年12月、同委員会の活動報告を受けた金川社長が次のように述べている。
「(同委員会の活動は)金額としての成果も大きいが、それ以上に関係者が事業の基本に関わることを実務を通して理解したことが重要である。これはOJTの一つであり、このような数字に表れない効果も非常に大きい」。
一方、小柳副社長を委員長とするG委員会は、原料単価の低減、生産工程の合理化、生産性向上などに向けた技術革新をさらに進めた。金川社長は1996年12月、同委員会の活動報告を受けて、「バブル後遺症による不況時に、化学業界のなかでトップクラスの業績を上げることができたのも、これらの活動によるところが大きい」と高く評価した。
この席上で小柳副社長も「合理化に終わりなしというが、実際にG委員会に取り組んでいると、どこまでいってもテーマが尽きないと実感した」と語ったように、G委員会は、さらなるコスト削減に向けて生産技術の改善と向上に力を注いだ。
同委員会始動から5年が経過した第120期(1997年3月期)までのG委員会による合理化累積額は、第120期の当社単独ベースの経常利益258億円を上回る数字であった。その後も継続的な取り組みによって合理化額は大きくなり、経済環境が激しく変動した1990年代において、当社を支える重要な柱となった。設備投資計画の見直しを含めた合理化を求める活動であるだけに、摩擦も起こりうる難しい仕事であったが、その推進を通じて社内の意識も変化していった。
この点について金川社長は、1996年12月のG委員会の報告を受けて、次のように語った。
「G委員会発足当時、合理化などによって職場が意気沈滞するとの誤った意見があったが、自分たちのアイデアが合理化につながるので、工場では逆にたいへん活気が出てきている。工場間の壁もなくなり、金額面以上の多くのプラスが出ていると思う」。

◆「G委員会」、コスト削減への取り組み
営業資金効率化小委員会、Z委員会など、1990年から1991年にかけて、さまざまな分野における新たな動きをここまで見てきた。社会一般から聞こえる声も「平成大好況」から「バブル崩壊」へと急転し、時代の大きなうねりを肌で感じた多くの従業員は、緊張感を持って変化に対応する姿勢に変わっていった。こうしたことが功を奏し、第115期(1992年3月期)は、同業他社が軒並み大幅な減収に陥り赤字に転じる企業もあったなか、当社は連結決算、単独決算ともに、過去最高の売上高を達成した。
だが、経済情勢はさらに悪化し、第116期(1993年3月期)は当社も減収減益を余儀なくされる見通しが濃厚になった。金川社長は1992年4月、常務委員会で次のように要請した。
「販売価格は企業の生命線ゆえ、単価設定に際しては担当者任せとせず、事業部長が直接関与して、収益構造の是正と合わせ、事業として成り立つよう責任を持って対処すること。また収益の落ち込みを本社、工場、研究所のあらゆる部門で経費節減などの合理化努力でカバーしてもらいたい」。
また、小田切取締役相談役は「たとえ現在の不況が長期化しても、不況にも強い優良企業としての真価を発揮すべく、経営目標どおり営業を最優先に増収増益への挑戦をお願いする」と述べた。
1992年5月には小柳副社長を委員長とする「G委員会」が設置され、コストダウン推進への取り組みを開始した。同年7月、小柳委員長から次のような報告がなされた。
「5月20日の発足以来10回以上にわたる綿密な協議・検討の結果、現段階で第116期として34億円のコストダウン目標を設定するとともに、本目標達成を確実なものとするため、今後の自動化、省力化、合理化投資計画を策定し、即効性のあるものから逐次提案、実施する」。
これを受け、同委員会は、各工場での「実績検討会」実施による計画のフォローアップ、自動化・省力化工事の実施、分科会の設置などを順次進めた。
ただしG委員会の対象は、技術面の改善が主体であり、目標達成に必要な自動化、省力化、合理化投資を積極的に進めた。安全確保に不可欠な修繕費は決して惜しまない、一般管理費削減は極端には行わないといった方針も打ち出され、声高にコスト削減を叫んで従業員を萎縮させるものではなかった。1992年12月、小柳委員長は「各工場の並々ならぬ合理化努力により、G委員会の第116期コストダウン目標34億円は40億円に上方修正となった」と報告した。
金川社長はこれを受け、「対外発表の第116期予想経常利益175億円に対して、G委員会のコストダウン目標40億円が持つ意義は極めて大きい」と述べた。続けて「とかく合理化となると工場の雰囲気が暗くなりがちだが、当社の場合、各工場とも活気にあふれ、自動化・省力化投資への意欲も高まっている。こうした合理化努力は手を緩めず、今後とも知恵を絞り工夫を加えながら持続させてもらいたい」と、G委員会の意欲的な取り組みにいっそうの期待を表明した。

21世紀に向けた積極投資

オーストラリアのシムコア

1999年の本社年賀式

効率化や合理化によって、経営の基礎となる企業体質を強化する一方で、成長に向けた思い切った投資も進められた。
1996年2月に、当社はオーストラリアの金属ケイ素メーカー「シムコア社」を買収した。金属ケイ素は当社グループが展開するシリコーン、半導体シリコン、合成石英などのケイ素化学事業の基礎原料であり、それまではブラジル、ノルウェーなどからの輸入に頼っていた。しかし、1995年頃から世界的に金属ケイ素の需給は逼迫しており、高品質な原料の安定確保は重要な経営課題となっていた。シムコアは西オーストラリア州のバンバリー市近郊に位置し、年産3万tの金属ケイ素の生産能力を有し、当社の金属ケイ素購入先の一つでもあった。
工場は1989年12月に操業を始めたが、操業開始から赤字が続き、複数の銀行が債権者となり再建を目指すも経営不振が続いた。1995年3月から全株式をドイツ銀行が所有し、同銀行は素材メーカーとしての経営ノウハウを持つ企業への売却を望んでいた。
金属ケイ素の安定確保に向けてM&Aも選択肢の一つであると考えていた当社は、ドイツ銀行からの引き合いがあると早速検討に入った。当時、金属ケイ素の産地のなかでもオーストラリアは生産コストが欧米に比べると安く、政治的にも安定しているという点で他の産地より好環境であった。また、同社の設備は業界最新のもので、金属ケイ素の品質は世界最高水準との評価を得ていた。
シムコアの生産能力では当社グループで使用する金属ケイ素をすべて賄うことはできないが、当社グループに金属ケイ素メーカーが加われば、他の金属ケイ素メーカーとの価格交渉の場で非常に有利となる。
ただしシムコアの経営を立て直し、継続して利益を計上できる会社にするには困難が予想された。1995年12月、この件の提案を受けた金川社長は、「長期的に見て、川下で努力してマーケティングを行い川上の原料を単純に買う時代は終わりに向かうと思う。この会社の経営は容易ではないが、かかる戦略的見地から、あえてこれを推進したい」と述べ、承認した。
買収1年後の1997年2月、シムコアの経営効率化と国際競争力の強化を図るため、以下の施策を実行した。
まず社長の交代を行い、シンテックのシュレーダー(ErvinEdwardSchroeder)副社長がシムコアの社長を兼務する体制とした。これによりシンテックの工場運営ノウハウがシムコアに導入され、労働生産性は買収直後に比べて40%上昇し、作業環境も改善された。また、工場の操業も格段に安定した。さらに、買収当初は19名だった事務関係の人員を半分以上削減し、管理部門の権限が強かった同社の経営体質を刷新した。
こうしてシムコアは、国際事業本部やシンテック、シンエツインターナショナルヨーロッパなどと連携して、オーストラリア、ニュージーランド以外の地域へも販路を拡大するとともに、各部門で合理化を進めた。また、借入金を早期に返済し、財務体質の改善も推進した。その結果、シムコアは、1997年12月期には利益を計上し、以後も毎年、連結決算に貢献している。
1998年には、21世紀の事業基盤の強化に向けて、いくつかの大きな投資計画に着手した。これについて金川社長は、1999年1月の本社年賀式で次の5つを掲げた。
すなわち、1シンテックのルイジアナ計画(新工場建設計画)とダウケミカルとの新契約の締結、2日立製作所からEPWを含めた半導体シリコン事業の営業権の取得、3欧州におけるシェルケミカルズ社、アクゾノーベル社からの塩ビモノマー、塩ビポリマー事業の買収、4マグネット事業のフィリピンへの進出、5Zテーマの事業化、であった。
その最大のものが、1のシンテックの新工場建設計画で、米国に塩素、か性ソーダ、塩ビモノマー、塩ビポリマーを生産する第2の拠点をつくるというものであった。この計画は1996年の年明け早々に対外発表されたが、当時の米国の社会情勢なども絡み、計画の実現までいくつかの紆余曲折を経ることになった。
1998年9月、最終的にルイジアナ州アディスに塩ビポリマーの新工場を建設することが決定し、1999年10月に着工した。
また欧州では、1999年12月、上記3のとおり、シェルケミカルズとアクゾノーベルとの合弁会社である、オランダの「ロビン社」の塩ビモノマー事業と塩ビポリマー事業を買収した。この買収は、当社が既存事業の海外展開に向けて積極的に行った最初の事例といえる。これらの具体的な経緯は本章第Ⅲ節で述べる。
シンテックの新工場建設と欧州での塩ビ事業買収について、金川社長は社報『信越化学』1998年11月号で次のように説明した。
「いままで信越が買収を行わなかったのは、化学工場におけるプロセス選定の問題が大きく関係している。つまり、劣ったプロセスの製造工場を買えば、事実上、変更不可能で致命的となる。今回、買収に踏み切った塩ビの工場は信越プロセスを用いている。(日・米・欧の)3つの拠点はそれぞれ大きな地元市場を持ち、その需要に応えることを第一義とするが、競争力のある3拠点から世界の全市場をカバーすることができる。3つの主要通貨圏内に生産拠点を有することにより、時々の通貨変動に応じて収支にもっとも貢献するところから、全世界に塩ビを供給するという柔軟性と選択肢が得られる」。
「米国における新工場建設とシェル・アクゾ塩ビ事業の買収はともに、1にも収支、2にも収支、3にも収支という大方針のもとに決定した。伸びるマーケット、世界をベースとした幅広い販売網と経験、優れたプロセスと技術、そして長期契約に基づく競争力のある原料の安定供給という要素が整っている」。
「一貫工場はハイリスク・ハイリターン、単独工場はローリスク・ローリターンという図式を振り回す向きもあるが、これはこの事業の本質を理解しない人の一般論で、当社のケースにはまったく当てはまらない。今回の買収で(塩ビ事業で)世界一の地位を堅固にするが、それは収支を重視した新工場の建設や買収を断行した結果であって、世界一になるために買収などを行ったものではない。この点は特に強調しておきたい」。
また、2で挙げたように、当社は1998年12月、日立製作所との間で、半導体シリコン事業の営業譲渡について合意に達した。これは日立製作所と同社の子会社である日立東京エレクトロニクス(現・ルネサス東日本セミコンダクタ)が、日立グループ向けに行っていた半導体シリコン事業を、1999年4月をもって当社に譲渡するというものであった。
譲受の対象となったのは、日立製作所半導体事業本部の甲府製造事業所結晶開発部、日立東京エレクトロニクス柳井工場の結晶柳井製造部と同社結晶製造本部結晶甲府製造部。これにより日立グループは、CZ法単結晶、PW、EPWなどすべての半導体シリコン事業から撤退し、半導体デバイス事業に経営資源を集中することになった。当社は、この営業譲受によって、半導体シリコン事業の強化と日立との関係強化を図った。
同じく1998年12月には、4に挙げたマグネットの新生産拠点をフィリピンに設置することを決定した。これは、VCMのほとんどの需要家が東南アジアに生産拠点を移転し、特に日系メーカーは全社がフィリピンに進出したことに対応したものだった。
当社はすでに1997年に、フィリピンのIMI社(IntegratedMicroelectronics,Inc.)とVCMの組立工程の業務委託契約を締結し、同年9月から組立ラインが操業を開始していた。このフィリピンでの事業をさらに伸展させるために、1999年3月、当社全額出資の新会社「シンエツマグネティクスフィリピン社」を設立し、マニラ市の南約40kmのラグナテクノパーク内に取得した敷地約1万m²に工場を建設し、組立工程の前工程である加工工程を手がけることとした。
5のZテーマの事業化では、エキシマレーザー用フォトレジストとペリクルの事業化が1998年1月に対外発表された。この頃、半導体デバイスの高集積化にともない、回路の線幅は微細化しており、回路パターンを転写する際の光源には、より解像度の高いエキシマレーザーが使われるようになっていた。
当社は線幅0.25~0.18μm(250~180mm)に使われるKrF(フッ化クリプトン)エキシマレーザーに対応したフォトレジスト(感光性樹脂)の開発を進めた結果、他社に先駆けて事業化に成功した。このため、1997年12月には直江津工場にフォトレジスト量産設備を完成させ、1998年に本格操業を開始した。
また、KrFエキシマレーザーに対応したペリクル(フォトマスク防塵カバー)の開発にも成功しており、これにより、シリコンウエハーに回路を書き込む「フォトリソグラフィ工程」で使われるすべての素材を、当社グループで供給できることとなった。
前述した一連の事業基盤強化を支えたのは、1996年8月払い込みの第6回無担保転換社債500億円と、2000年満期米貨建分離型新株引受権付社債5億米ドル(ユーロドルワラント債)を発行して調達した約1000億円の資金であった。
これについて金川社長は、社報『信越化学』1996年10月号の座談会「プロジェクト21の作業を終えて」のなかで、以下のとおり説明している。なお、この座談会は1996年9月12日に行われた。
「先日、この5年間で全グループの投資の予想を集計したら、約6200億円になるのです。そのなかでキャッシュフローが約4500億円。これはいまの恵まれた事業環境をベースにつくられていますから、今後変わっていく可能性もありますが、1000億円以上の資金が足りないことになります。これを今度のエクイティファイナンスでバランスを取ったわけです」。
当社がエクイティファイナンスを実施したのは、1990年2月払い込みの第5回無担保転換社債発行以来6年半ぶりであった。金利上昇の予測が出始めた時期を見逃さずに打った施策であり、のちに「金利最安値圏での絶妙のタイミング」と証券の専門家から評価された。また、わが国経済全体が厳しい環境下にあるなかでこのような資金調達が成功したのも、当社グループが優れた業績を上げてきたためであった。
この資金は、国内における既存製品の生産設備の更新・合理化・増設と研究開発設備の拡充、および海外子会社への投融資に充てられた。

世界の優良企業として評価

金川社長を表紙に掲載した『chemical week』誌

このような一連の改革、そして成長に向けた投資を推し進める一方で、株主への説明責任の実行や利益還元にも取り組んだ。
1990年代に入ると、企業経営の実態を正確に反映するものとして連結決算が重視された。証券取引法関連の規則が改正され、連結対象会社を決める際には、子会社・関連会社の量的(売上高、当期純利益、総資産、剰余金の大きさ)・質的(会社の規模は小さくても親会社と密接な関係にある会社)重要性について総合的な判断が求められた。このような流れに対応して、当社は連結対象会社を拡大させた。
第118期(1995年3月期)の連結対象子会社と関連会社数は54社となり、前期の20社に比べて34社増えた。この連結対象拡大に合わせて、同年度には連結子会社や関連会社の経理担当者、本社経理部や工場の経理担当者などの関係者が集まり、連結決算実務に関する説明・検討会を数度にわたり実施した。
これにより連結会社間で十分な意思疎通と協議が行われ、相互に協力関係を築きつつ実務を遂行できるようになった。また、各社の事務負担が少なくなるよう、連結決算のために作成する資料を可能な限り減らし、親会社である当社が各社の資料作成に協力する体制をつくった。
1995年5月には、それまで6月に行っていた連結決算の発表日を繰り上げ、単独決算と連結決算の同時発表を開始した。この時期、連結決算を単独決算と同時に、しかも正面に据えて説明する国内企業の数はまだ少なく、証券会社や機関投資家のアナリストから、その先進性が高く評価された。
さらに1997年11月の第121期(1998年3月期)中間決算発表に際して、当社としては初めて連結中間決算の発表を行った。当時、連結中間決算を発表している企業は、金融を除く全国上場会社1794社中72社にすぎず、主要化学会社のなかでは当社のみであった。
決算発表以外にも、IR(InvestorRelations=投資家向け広報活動)の一環として、金川社長が1998年9月にソロモンスミスバーニー証券主催のトップセミナーで講演を行うなど、トップ自ら証券会社や機関投資家のアナリストなどへの広報活動を積極的に行った。
また、株主向けの事業報告書も、1998年12月発行の『第122期中間報告書』から、判型を大きくするとともに、タイトルを『しんえつ・リポート』として、読みやすさの改善と内容の充実を図った。
1996年5月には、株主への利益還元と創立70周年記念事業の一環として株式分割を実施し、同年3月末日の株主に対し、株主の所有株式1株につき1.05株を割り当てた。当社は第120期(1997年3月期)の1株当たり配当金を前年度と同額の7.50円としたため、株主にとっては実質的に増配となり、歓迎された。
なお1株当たり配当金は、その後、第121期8.50円、第122期9.00円、第123期10.00円、第124期12.00円と続けて増配し、株主に報いる努力を続けた。
当社の高い業績水準とIRの積極的な推進などを背景に、資本市場やマスメディアの間でも当社の評価は高まった。
1997年には、米国の投資家向け雑誌『Worth』誌6月号で発表された「TheWorld'sBestStocks」(世界の優良株)50社中の1社に当社が選ばれた。これは市場占有率や現在の市場における位置を今後も維持・改善する可能性や、その企業の属する業界での成長性などの点から、長期投資に適した企業を、米国のモルガンスタンレー証券証券社が世界の1650社を超える企業のなかから選定したものであった。
日本企業でこの50社に選ばれたのは、当社と栗田工業、ソニーの3社だけであり、そのなかでも当社の評価点は最高で、国際優良企業として高く評価された。
さらに1999年4月には、モルガンスタンレー証券が投資家向けに発行しているレポート『EquityResearch』で発表した「The40BestIdeas」(特別推奨40社)の1社に当社が選ばれた。このとき化学会社で選ばれたのは、当社と米国のデュポン社だけであった。
モルガンスタンレー証券は、企業が持続的に競争優位に立つための必要条件として、事業規模、ブランド力、強力な財務力、コスト管理などに着目。さらに中核事業が市場で1~3位のシェアを持ち、かつ、そのシェアが増加基調にある企業を対象とした。同社ではまず、これらの基準を満たす250社を選び、さらに今後12~18カ月間に株価が上昇する可能性が極めて高い企業40社を「The40BestIdeas」とした。
米国のウォーバーグディロンリード証券が集計した1999年末時点の「世界の化学企業時価総額ランキング」においても、当社は第5位となった。1位はデュポン、2位はバイエル、3位はBASF、4位はダウケミカルと、世界の代表的な化学メーカーに伍しての第5位で、この結果に多くの注目が集まった。
その要因として、株価がこれまでの目標株価5000円を上回ったことに加え、シンテックの好業績、1999年末に買収した欧州塩ビ事業への期待、信越半導体グループの業績回復、フォトレジストや光ファイバー用プリフォーム、レア・アースマグネットなど高付加価値製品の堅調な伸びなどが挙げられた。

活力ある組織のために人事制度刷新

経営改革の進展と並行して、従業員が自分の力を生き生きと発揮できる活力の高い組織を構築していくために、当社は1998年4月に人事制度を一新した。
1990年代に入ると、企業間の国際競争が激しくなる一方、個人の生活や仕事に対する価値観は大きく変化し、かつて日本企業の成長の原動力ともなっていた終身雇用、年功序列といった体制にも見直しの機運が高まった。当社は従業員の継続的な雇用に最大限の力を注いできたが、経営環境が大きく変化するなかで、年功序列による組織の硬直化といった弊害をなくし、柔軟に変化に対応できる体制を確立するためには、資格制度、人事考課制度、給与制度の改定を柱とする人事制度の改革が急務であった。
人事制度の刷新に関しては、それまで人事部内で検討した内容をもとに、1994年から本社、工場の人事担当者による検討が進められた。さらに1996年9月には、労働組合とともに「新人事制度推進委員会」を設置し、資格、給与、人事考課の各制度を、より成果や能力を重視したものとする改定案がまとめられた。
そして、1998年2月に開催された労働組合の中央臨時大会でこの案が了承され、4月から実施された。
具体的には、1973年につくられた社員4級から参事1級までの14段階の単線型資格制度を根本から改めて、職務分野や責任範囲に応じた複数の職群を設ける複線型資格制度とした。また従来、役職と資格は連動していたが、これを分離した。
人事考課制度については、上司には部下と年2回、面談することを義務づけ、組織の上下間での意思疎通の向上を図った。
給与制度は、従来は本人給を基本とし、これに資格給、職務給が加えられていたが、本人給は学歴や年齢、勤続年数などさまざまな要素が加味され、定義づけが曖昧であった。新人事制度では、この本人給を廃止して、年齢給(生活費に対応)と職能給(能力、役割、責任に対応)を柱とする給与体系に変更した。こうして学歴や年齢よりも、生活保障の水準を維持しつつ成果や能力、会社への貢献度を重視する制度の確立を目指した。
また、1997年には、取締役や従業員の労働意欲や士気を高め、当社グループの業績向上を図ることを目的として、ストックオプション制度を導入した。
当時、米国では上場企業の約9割がこの制度を導入していたが、国内では制度が整わず検討段階にとどまっていた。しかし、ストックオプション制度は世界の趨勢でもあり、日本での導入も確実であった。
1997年2月、金川社長はストックオプション制度の検討を指示した。その後、同年6月に商法が改正され、日本でもストックオプション制度が解禁になると、いち早く導入を決定し、6月の定時株主総会の承認を経て実施した。

将来の姿を描く「プロジェクト21」発足

1995年11月、「プロジェクト21」が発足した。「将来の夢を持ちたい」という社内からの強い要望と、「将来の当社の構想や事業展開について、従業員とざっくばらんに話し合いたい」という金川社長の希望から実現したものであった。プロジェクト21は、1996年に創立70周年を迎えるにあたり、21世紀に向かって「当社のありたい姿(企業構想・目標)」を取りまとめることを目的としたプロジェクトチームで、営業、製造、研究を横断して31名のメンバーが選任された。11月に行われた第1回の会合には金川社長、小柳副社長のほか、プロジェクトのメンバー全員と、事務局の社長室関係者が出席し、検討課題や検討方法を決定した。その後、各部門でメンバーを中心に適宜検討を進めて「21世紀ビジョン」を総括し、1996年8月の常務委員会で承認された。
この21世紀ビジョンは、2010年における当社の姿を描き出したもので、塩ビ関連事業、シリコーン事業、電子材料(半導体と精密材料を含む)事業、酢ビ・ポバール事業、セルロース事業、香料・フェロモン事業、国際事業、そして研究開発について、それぞれの市場シェアや生産体制、海外展開などの具体像に踏み込んだ内容となった。投資額や収益性は未検討ではあったが、2010年度の当社グループの連結売上高を1兆6000億円と試算した。
1997年に入ってからも創立70周年記念事業の一環として、本社地区の若手社員と金川社長との懇談会が行われた。これは21世紀を担う従業員が金川社長を囲んで、経営一般や将来の事業展開から、各人が抱えている課題に至るまで、特にテーマを設けずに語り合うものであった。こうして次代を担う若い声も経営に生かし、社内の垣根を取り払う努力を進めながら当社グループは21世紀の扉を叩いたのである。

◆連結純利益10億ドルを目指して
1997年2月、新たに「PD(ProfitDoubling)委員会」の設置が決定された。これは3年後の第123期(2000年3月期)、遅くとも第124期を目途に経常利益(単独ベース)を倍増させることを目標としたもので、金川社長を委員長として発足した。
当社グループには好業績の子会社が多く、連単倍率が高いことで評価されていたが、このPD委員会の取り組みを通じて、信越化学単体の業績もいっそう高めていくこととなった。また金川社長は、PD委員会設置の趣旨説明のなかで、「税引後利益10億ドルが世界の優良企業と位置づけられる最低レベル」と述べて、連結純利益10億ドルという具体的な数値目標を提示した。
1997年の日本経済は、円安による輸出企業の業績回復が見られたが、4月に実施された消費税率の引き上げ(3%から5%へ)にともなう駆け込み需要の反動減や、金融機関の大型破綻が相次いだことによる金融システム不安などにより、再び下降線をたどった。
また海外に目を向けると、7月にはタイの通貨切り下げに端を発する東南アジアの通貨危機が起こり、これが米国のハイテク産業にも影響を及ぼし、それまで好調に推移してきた米国経済に影を落とす結果となった。
このように国内外の経済環境が激しく揺れ動くなか、金川社長は1997年12月に、「東南アジア通貨の暴落にあたって、緊急対策」および「信用危機にあたって、緊急対策」を各事業部門と経理部、社長室に宛てて発し、リスク管理をより厳格に行うように指示するなど、変化に即した対応を進めた。
この結果、当社および当社グループの業績は売上高、利益とも好調に推移して、後述するようにその成長性は国内外から注目された。1998年1月、本社年賀式において金川社長は連結売上高1兆円、当期純利益1000億円、単独売上高5000億円、経常利益500億円という目標数値を改めて提示した。それとともに、内外の経済環境が厳しさを増すなかで「経営に奇策はない」として、不況に強い企業体質づくりに向けて、次のような方針を示した。
・強力な財務体質をつくる。
・管理部門の縮小、本社機構の簡素化に向けた取り組みを継続する。
・設備投資は原則としてキャッシュフロー内にとどめる。
・ROE(自己資本当期純利益率)を高めて株主に報いる。
1998年から1999年にかけて、国内では設備投資の大幅な減少、個人消費や住宅着工の不振の長期化といった需要の低迷により、経済環境はさらに悪化した。一方、国際市場では競争が一段と激化した。この頃からDRAMの世代交代が始まり、メモリーの供給が過剰となりシリコンサイクルは下降線をたどった。
当社グループは、1998年4月に始まる第122期経営目標の「目標Ⅰ」として、「現下の厳しい事業環境を乗り切るとともに、単独売上高5000億円、経常利益500億円、連結売上高1兆円超、当期純利益1000億円を目指す基礎をつくる」ことを掲げ、各事業の強化に取り組んだ。
その結果、第122期(1999年3月期)連結決算は、半導体関連分野が厳しい環境に置かれた影響もあって売上高は前年比減収となったが、当期純利益は433億円で前年比3.2%増となり、4期連続で最高益更新となった。また1株当たり当期純利益は109.36円で、主要化学会社のなかでトップに立った。単独決算では引き続き、売上高、営業利益、経常利益、当期純利益ともに過去最高を更新した。
1999年4月から始まる第123期の経営目標では、さらに一歩踏み込み、短・中期と長期に分けた目標数値が掲げられた。短・中期目標は「連結売上高1兆円、経常利益1000億円、税引後利益700億円」、長期目標は「連結売上高1兆5000億円、経常利益1500億円、税引後利益1000億円」であった。
さらに1999年7月、従来の販売計画に代わる新たな数値目標が作成された。この算出基準は次のとおりであった。
<利益目標>
1使用総資産からROI(投下資本利益率)=20%を基準として利益額を算出。
2過去3年間の実績最高利益額を下回らない。
3外部環境・市況を勘案して補正。
<売上目標>
前年比10%増を基準として一部補正。
社報『信越化学』1999年9月号では、この「売上・利益目標」新設の趣旨を、金川社長自身の言葉で全従業員に伝えた。
「マンネリで事業を続けても、経営目標は到底達成できないため、思い切って刺激のある数値目標を設定した。これをぜひ達成する努力をお願いする。8月の月例検討会から各部の実績報告は、この目標値に対する増減と前年同期に対する増減を示してもらいたい。この目標はかなり高い数字だが、達成不可能なものではなく、ROI=20%は当然の水準である。特に事業部関係者には相当のプレッシャーがかかると思うが、戦略的な発想の転換をして知恵を働かせ、さまざまな対策を講じて目標数値を達成してもらいたい」。