

創業からの60年間の歴史
1926-1986
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初期のシリコーン製品(シリコーンオイルの試験販売開始)
当社のシリコーン開発の第一歩は、1949(昭和24)年1月、メチルクロロシランの直接合成法を研究していた東京工業大学に技術者を派遣し、学ばせたことに始まった。そして、研究を本格化させるため、同年10月に7名の技術者を選抜し、磯部工場で研究を開始した。翌1950年5月、当社は中央研究所磯部分室を設置し、7月には戦後わが国のシリコーン工業の推進役となった文部省(現・文部科学省)の外郭団体、学術研究会議の「珪素樹脂委員会」に加盟した。
当社はシリコーン製造の第一関門となる安定的なシラン合成の実現に向けて、昼夜兼行の実験を続けた。その結果、1951年5月に珪素樹脂委員会でシラン合成の成功を発表し、6月に磯部工場でパイロットプラントを完成させた。委員会参加企業のなかでシラン製造に最初に成功したことで、評価が一気に高まった。
これらを背景に、当社は日立製作所と共同研究を行うことになり、同社との「第1回珪素樹脂打ち合わせ会」を1951年11月に行った。その後、日立製作所はシリコーンの製造研究を中止して製品評価と応用研究に専念することとし、当社は引き続き製造研究を行うという役割分担の合意がなされた。このときの合意は、その後、シリコーンの販売協定へと発展し、シリコーン事業成長に大きく寄与した。
とはいえ、シリコーン事業化の前には、米国のダウコーニング社、ゼネラルエレクトリック社(GE)の擁する200件にものぼる特許が立ちはだかっており、必ずしも平坦な道のりではなかった。この難関を打開すべく、1951年4月、小坂徳三郎副社長が渡米し、特許実施権の譲渡について両社と交渉を行った。
しかし、シリコーンは軍需物資でもあり、まだ知名度もない当社への特許実施権譲渡には両社とも極めて消極的で、交渉は容易には進まなかった。
それでも1952年になって両社の姿勢に変化が見え始めた。まず同年10月に、ダウコーニングのバス博士(Dr.ShailerL.Bass、のちダウコーニング社長)が磯部工場の視察に訪れた。一方、GEからは12月に特許実施権譲渡の契約書草案が送られてきた。そして1953年1月、GEとの契約調印が東京で行われた。
この間、当社は1951年12月に臨時珪素樹脂部を設置し、本格的な生産・販売体制を固めた。1952年9月には当社初のシリコーン製品として一升瓶に詰めたオイルを出荷し、1953年10月には中央研究所磯部分室の試作部門を、新設の正式な製造部門である磯部工場化成課とした。同時に、臨時珪素樹脂部を珪素樹脂部に昇格させてシリコーンを事業化した。販売対象分野が広いこともあって当社としては初めて商社を起用し、東京貿易(現・三菱商事)、第一通商(現・三井物産)と総合代理店契約を結び、本格販売を開始した。工場では増設が進められ、オイル、ワニス、撥水剤、消泡剤など約20種の製品を送り出すまでになった。
ところが1954年になると、不況のあおりを受けてシリコーンの販売が不振に陥り、1954年12月から1955年2月まで、在庫調整のため操業を一時停止した。その一方、操業停止直前の1954年11月、当社は日立製作所と同社へのシリコーンの供給・販売に関する協定を結んだ。当時、日立製作所は国内の電気絶縁物関連に大きなシェアを有しており、シリコーンの安定需要家としてまたとないパートナーであった。
その後、景気は回復してシリコーンの需要も好転、1955年4月には月間売上高1000万円を達成した。さらに1955年以降、いわゆる「神武景気」を背景に、シリコーンは工業用モータ、火力発電所、新型鉄道車両などの重電部門のみならず、家電製品にも普及して、活躍の場は大きく広がった。
これに対応して、当社は立ち後れていたシリコーンゴム分野に注力し、1954年8月にドイツのバイエル社と高強度シリコーンゴムに関する技術協定を締結、1956年9月にはゴム工場を完成させた。
1957年1月、第1期増設工事(「K-1工事」)として、シロキサン換算で月産20tの生産能力を持つ本格的なシリコーン量産工場の建設が決まった。K-1第1期工事は1957年10月、K-1第2期工事は1959年10月に完成した。この工事が進行中の1957年5月、ダウコーニングの副社長となったバス博士が再び磯部工場を訪れた。これを機にダウコーニングとの特許交渉が進展し、6月には契約に調印し、特許実施権を取得した。当社はGE、ダウコーニングの特許を基礎に独自の製品開発が可能になり、開発・生産が一段と強化された。また、輸出についてはこれまでサンプル程度だったが、1957年8月にはオーストラリア向けにシリコーンオイル1.8tと、初めてまとまった量を出荷した。
このように拡販体制が整ったにもかかわらず、1958年の「なべ底不況」の影響はシリコーンにも及び、社内では「シリコーン盆栽論」が議論された。これは、シリコーン事業に注力しても「盆栽」程度の小規模にとどまることを危惧するものであったが、景気の回復と、国産シリコーン育成の気運の高まりを背景とした拡販努力により克服することができた。その後、1960年3月にはシリコーンの月間売上高は1億円を突破した。このような成長を背景に、1960年6月に磯部工場でK-2工事が完成、続いて1961年8月にはK-3工事が完成した。また、1960年7月には磯部工場内にシリコーン技術センターも新設され、応用加工、品質改良、新規用途開発などに取り組んだ。そこから、剥離紙用シリコーン、ウレタンフォーム用整泡剤、二液型シリコーンRTVゴム、建築用シリコーンシーラントなどが次々と送り出された。

直江津工場の塩ビプラント
1953年10月、当社は中央研究所調査部を新設した。同部は採算の悪化した肥料事業に代わる新規事業の調査を開始したが、そこには特命事項としてアセチレン系誘導体の合成事業の可能性を探るという任務も含まれていた。直江津、武生両工場におけるカーバイド事業の見直しが急務となっていたからである。1954年4月、直江津、磯部両工場で小坂副社長により経営の基本方針についての説明が行われた。そこで示されたのがシリコーンの量産化、アセチレン系有機合成事業への進出、新合金および純粋金属の工業化という3つのテーマであった。
これを受け、1954年の6月から8月にかけて本社および工場から若手技術者を委員に選び、アセチレン系有機合成事業が有望かどうかの本格的な調査・検討が行われた。その結果、塩ビ、酢ビ・ポバール、酢酸エステルは採算可能な事業分野であるという結論が得られた。
この調査と並行して、新日本窒素肥料(1950年に日本窒素肥料から社名変更)と共同で塩ビを事業化する計画が進められていた。1955年1月、両社は「日信化学工業株式会社」の設立に合意し、契約調印の運びとなった。
当社は同年3月に設立されたこの日信化学工業を、アセチレン系有機合成事業の第一歩となる塩ビ事業化の出発点と位置づけた。工場立地に選ばれた武生では1955年5月に塩ビ生産設備の建設を開始し、翌1956年1月に完成した。同時期、日信化学工業にアセチレンを供給するための生産設備が武生工場に設置され、1956年1月から操業を開始した。
一方、当社は1956年3月に新研究総合委員会を設置し、従来の肥料事業に依拠した事業構造から脱却すべく、塩ビ生産の自社事業化も視野に入れていた。そこで浮上したのが直江津工場に電解設備を建設する構想であった。塩の電気分解によって塩素を確保すれば、シリコーンの原料となるメチルクロライドの生産に活用できる。そのメチルクロライドの回収塩酸とアセチレンを原料に塩ビが生産される仕組みである。
これはカーバイド、金属ケイ素、天然ガスという直江津工場の持つ3つの資源を有効活用して同工場を発展させるばかりでなく、シリコーンを生産する磯部工場との連携を深め、全社的な生産体制を構築する「直江津一磯部コンビナート」形成をも意味した。 1956年7月、直江津で新プラントの建設が始まった。この塩ビ自社生産では、塩ビモノマーは自社技術で生産できたが、電解については呉羽化学工業(現・クレハ)から、塩ビ重合については日信化学工業から技術を導入した。こうして建設された塩ビ月産500tの直江津新プラントは、1957年5月に完工式を挙行し操業を開始した。
当社は硬質製品に重点を置く販売策をとったが、1950年代後半のなべ底不況下で硬質分野の需要が減退し、当社の塩ビ操業開始後間もない1957年、1958年に塩ビ業界は深刻な不況に陥った。そうした状況下で、1957年10月には輸出カルテル、翌1958年11月には初の不況カルテルが結成された。当社も1957年末から米国、ドイツなどへの輸出を開始した。
1958年秋になると景気が回復し、これにともない硬質パイプ用の需要も徐々に回復し、さらには拡大基調に転じた。そこで、1959年には生産能力を月産1700tと当初の3倍を超える規模に増強することになった。
不況を脱すると、塩ビ業界では過剰な設備投資を避けるため通産省主導による設備投資調整が行われ、各社の設備増強は“増設枠”内に収められた。それでも当社の生産能力は、1965年末の段階で操業当初の8倍の月産4170tに達した。
この間、塩ビの新用途、新製品が続々と生まれた。塩ビの販売力を高めるには、技術サービスを含む技術面の強化が欠かせないため、1959年11月、中央研究所プラスチックサービスセンターを設置した。また、新製品開発でも、塩ビと酢ビの共重合樹脂、ペーストレジンなどの研究や試作を進めた。
こうして、硬質塩ビ製品の急速な需要の伸びも幸いして、当社の塩ビ事業は活路を開いていった。

磯部工場の高純度シリコン工場(1号館)
1954年4月に経営基本方針のテーマの一つとして掲げられた「新合金、純粋金属の工業化」により、特色ある新合金の開発と、金属の純度を高めることによる新規用途開発に取り組むことになった。これより前、金属関係では、すでに1948年8月から武生工場がケイ素鉄の生産を再開、また磯部工場では1946年2月からマンガン鉄の生産を再開していた。磯部工場では、1952年6月から新たに自動車部品などに使われるノジュラー鋳鉄添加合金(シリコンマグネシウム合金)の生産も開始していた。
1950年代後半に入り、当社は次代の金属工業に関する調査を行った。その結果、クロム、タンタル、そして高純度シリコン、レア・アースが、次の事業の候補として浮かび上がった。このうちクロムについては、諸般の事情から事業化を見送ったものの、タンタルは1959年9月に事業化を決定し、同年12月から磯部工場で生産を開始した。また、1960年6月には武生工場再出発の拠点としてメタルセンターが開設され、その後のレア・アースおよびマグネット事業の母体となっていった。
その頃わが国では、一部で整流器やトランジスタ用の高純度シリコンが注目されていたが、1950年代半ばには技術面、市場面でまだ解決すべき問題も多く、事業化の動きはほとんどなかった。
ところが、1957年11月、日本電気(NEC)から当社に、高純度シリコンの生産要請が舞い込んだ。当社が原料となる金属ケイ素を生産していること、シランに関する豊富な知識と実績を有しシリコーンの事業化にも成功している、といった点が要請理由であった。しかし、トランジスタ用の高純度シリコンは、極めて高い純度が求められる。その量産化が果たして可能か否か、まず技術情報の収集から始めなければならなかった。
当時、高純度シリコン製造ではデュポン法が知られていたが、そのほかにペシネー法、シーメンス法なども開発されており、なかでもシーメンス法はもっとも純度が高いシリコンの量産化を可能にするものだった。
そうしたさなかの1958年10月、シーメンス社と古河電気工業が共同で設立した富士電機製造から、シーメンス法の技術導入を行わないかという打診があった。当社はこれを受け、1958年12月、中央研究所内に高純度シリコンの研究グループを立ち上げた。その後、1959年8月に研究グループを本社半導体部として独立させるとともに、10月にはシーメンスと技術導入契約を締結し、本格的に高純度シリコンの生産に取り組むことになった。そして、同年12月には磯部工場に隣接する工場予定地で起工式が挙行された。
半導体磯部工場は1960年7月に完成した。多結晶シリコン、FZ法(注1)単結晶の製造装置はドイツから空輸され、磯部で図面を頼りに組み立てたものであった。9月には総勢約50人で試運転を開始し、10月には「スーパーシリコン」の商品名で初出荷を行った。
さらにその後、当社は米国のメルク社と業務提携を行い、1961年3月から同社製品の輸入代行販売を行うとともに、同社のFZ法単結晶製造装置を導入して単結晶の大口径化への取り組みを開始した。また、1962年12月にはウエハーへの加工もスタートした。
ところが米国では1962年にデュポンが、1963年にはメルクが相次いでシリコン事業から撤退した。シリコン事業は販売価格の大幅な下落から低利潤となったため、従来どおりの事業体制では利益が得られなくなり、大口径化や、多結晶生産の低コスト化などが不可欠であった。一方、市場には、のちにIC(集積回路)に使用されるCZ法(注2)単結晶も存在していたが、この分野では他社が先行しており、当社は最後発であった。しかし当社は、日米の装置メーカーからCZ法単結晶製造装置を購入し、将来を見越した経営陣の強力な開発方針と関係者の努力により、まったく白紙の状態から、独自の技術をつくり上げることができた。
その後、1964年から1965年にかけて、わが国でも半導体シリコンの販売は大幅に落ち込んだ。従来の整流器をはじめとする産業用の需要が不振に陥ったからである。
この窮状を救ったのが1965年末から電機メーカー各社が一斉に開発を始めたトランジスタ・テレビであった。これにより当社は、日立製作所、富士電機製造、東京芝浦電気(現・東芝)などから大量の半導体シリコンを受注できた。半導体シリコン事業はその後、ICを主用途とする民生用のCZ法単結晶に重点を移して、事業基盤を確立していった。
(注1) FZ法: 棒状多結晶シリコンの先端を高周波加熱コイルで溶かす。小さなタネ単結晶を融液に接触させてから融解部分を徐々に移動して、棒全体を単結晶化させる。
(注2) CZ法: 粗く砕いた多結晶を石英るつぼに入れて加熱炉で溶かす。小さなタネ単結晶を融液に接触させてから徐々に引き上げて、単結晶を成長させる(温度や引き上げスピードを調節して直径を制御)。

初期の「メトローズ」設備
1955年4月、当社は、新潟県で天然ガスの採掘に成功した帝国石油とガス受給契約を締結し、同年7月から直江津工場が天然ガスの供給を受けた。
この天然ガスを、燃料だけでなく工業原料としても使用することを目的とした天然ガス塩素化計画が具体化し、1958年10月にはそのための工場建設「G工事」が正式に決定された。天然ガス塩素化計画とは、天然ガスを塩素化してメチルクロライド、メチレンクロライド、クロロホルム、四塩化炭素を生産しようとするもので、そのなかのメチルクロライドはシリコーンの原料として磯部工場に供給し、その他3品目は当社の新規製品として販売を予定していた。G工事は1958年11月に着工、1959年4月に完成し、試運転を開始した。
天然ガス塩素化設備は順調に稼働し始めたが、このうちメチルクロライドは、当時、シリコーン原料以外の用途がないため、早急に新規用途を開発する必要があった。そこで、当社はメチルセルロースに着目し、市場調査を行って事業化を模索した。メチルセルロースの原料は、メチルクロライド、パルプ、か性ソーダであり、パルプを除くとすべて自給できることが、事業化の大きな動機であった。
1959年9月、当社はメチルセルロースの事業化を目指して、その製造技術を有する米国のダウケミカル社と技術導入契約を締結し、1960年6月には政府の認可を得た。
それを受け、直江津工場に月産50tの工場を建設することが決まった。工場は1961年3月に着工、1年後の1962年3月に操業を開始し、製品は「メトローズ」の商品名で上市された。その後、メトローズは用途開発を継続的に進めながら、有機合成事業の一角を占める製品となっていった。
一方、塩ビと並ぶアセチレン系有機合成事業として、当社は1959年12月、直江津工場で酢ビ・ポバール工場の建設に着工し、1960年12月に同工場の操業を開始した。
酢ビの用途は当初、ほとんどがポバール向けであった。ポバールは、戦後の衣料不足に対応した合成繊維の一つであるビニロンの原料となる合成樹脂である。
当社では、それに加えて土壌改良剤用ポバールに着目し、工場着工前の1959年4月には、試作した土壌改良用ポバールを「ソイラック」の商品名でサンプル出荷を始めていた。他のメーカーも土壌改良剤分野を新規用途と見て参入し、にわかに脚光を浴び始めた。
しかし、需要の掘り起こしは思ったように進まず、結局市場性に欠けるとして数年後には各社とも撤退を余儀なくされた。当社も1962年7月にソイラックの販売を中止し、ビニロン用ポバールを着実に販売することを基本とした。
その路線に基づく営業の結果、当社はビニロンの大手メーカーであった大日本紡績(のちニチボー、現・ユニチカ)にポバールの供給を行うことになった。その後、同社との信頼関係は次第に深まり、1968年12月には合弁会社を設立するまでになった。
1960年11月、当社にとって初の海外事業となった合弁会社の「シレス社」がポルトガルに設立された。そのきっかけは、海外での塩ビの技術サービスと販路の拡大を図るにあたり、1959年に三井物産のサポートを受けて技術者を欧州に派遣したことであった。
ポルトガルはその一環として訪れた国の一つであったが、同国には塩ビの国産化に取り組み、すでに政府の認可を受けている企業グループがあった。それはポルトガル最大の電力会社UEP社で、傘下企業が生産しているカーバイドを原料にした塩ビ生産を計画していた。
この情報を得て、三井物産、現地の商社とともにUEPと交渉を重ねた。その結果、ポルトガル側出資比率50%、当社と三井物産が各25%の合弁会社を設立することで合意に達した。工場はポルト市南方のエスタレージャにある塩酸工場に隣接した場所に決まり、1962年10月に完成、12月から本格生産に入った。
シレスでの取り組みを踏まえ、1961年にインド、フィリピン、1964年にペルー、パキスタン、1965年に台湾、韓国へと、技術・プラント輸出を進めた。なかでもペルーでは、プラスチック加工メーカーであるペループラスト社から各種プラスチック加工と技術指導の要請を受け、当社が資本参加するとともに経営指導も行った。そして同社は、中南米における当社の技術・プラント輸出事業の拠点となった。
これら海外事業の推進役として1960年12月、社長室海外事業班が設けられ、同班が海外事業計画の立案および事業開発・管理を行った。1962年1月にこれが海外事業部として発展・独立し、当社グループの海外事業の牽引役となった。

本社が移転した東銀ビル(右から2棟目のビル)
1957年11月、有機合成事業の本格展開を控え、これまで社内で培ってきた諸種の技術を再結集するため、「技術研究委員会」が設置された。同委員会は中央研究所や各工場の技術・研究部門などが連携を深め、操業技術の向上と新規技術の開発を進めることを目的とした。さらに翌1958年6月には、新規事業開拓に向けた調査活動を一元化するため、開発本部が設置され、これに連動して中央研究所は全面的に改組された。
1961年3月には常務委員会の諮問機関として「研究開発委員会」、「化学工学会議」が組織された。同年11月には中央研究所を発展的に解消し、高分子研究所、化学工学研究所が発足した。続いて1962年8月には、肥料部に土壌肥料研究所、半導体部に電子材料研究所を設置し、市場に密着した研究開発の推進を目指した。
また、1950年代になると社内に蓄積された技術・ノウハウの保護にも目を向けるようになった。1955年5月には「特許連絡会議」を設置し、発明、特許出願の奨励および特許に関する事務処理などの一元化を図った。当社は新たな有機合成事業を計画しており、より適切な特許施策と管理が必要になったためであった。その後、1960年8月に本社に設置された特許室によって、特許および実用新案に関する調査や出願事務、特許係争の処理、報償などが処理された。
一方、安全操業の確保に向けて、1960年9月に「中央安全委員会」を設け、安全管理の全社的統一を図った。同委員会は安全計画、生産設備の建設・保全に関する安全管理を審議し、安全意識の向上と徹底を促した。翌1961年6月には、同委員会と排水等処理対策委員会が統合し、「安全審議会」が発足した。同審議会では安全監査制度を導入し、同年10月以降、毎年1回、各工場の安全管理方針および管理状況の監査を実施した。
小坂順造社長は1954年7月に当社社長を退任した。その後、空席となっていた社長には、1956年7月に小坂徳三郎副社長が昇任し、小坂順造は最高顧問に就任した。ただし小坂最高顧問は社長在任中に、すでに経営の実権を小坂副社長に譲っており、ときに助言することはあっても実際の経営に関与することはほとんどなかった。
1960年10月16日、小坂最高顧問は79歳の生涯を閉じた。これは当社にとって大きな悲しみであっただけでなく、広く政財界からもその死を惜しむ声が相次いだ。
当社は、小坂副社長が実質的に経営をつかさどるようになった1950年代前半に経営近代化の基礎固めを進めていたが、1950年代後半からは相次いで新規事業に着手した。これら新規事業進出にともない組織改正も実施された。これは米国企業の視察などを参考に、トップマネジメントの機能強化、権限の委譲と責任の明確化、情報の集中、人心の一新を図るものであった。1958年12月に設置した「常務委員会」は、全般的視野から業務の運営を統轄するもので、社長、副社長、専務、常務に加え在京役員をメンバーとし、社長室を事務局とした。
また1959年1月には、現業部門を製品別縦割り組織として、肥料部、カーバイド金属部、化成部、珪素樹脂部の4部門に改組した。これら現業部門は、製品の販売計画、原料調達計画を独自に立案し、各製品の品質向上、生産設備、操業技術などに関する事項も統括する広範な権限を有した。将来の事業本部制導入を見据えた措置であった。
このような一連の組織改革を進めるなかで、1960年4月には本社を丸ビルから、同じく東京都千代田区丸の内の東銀ビルに移転した。丸ビルには1931年以来、このときまでおよそ30年にわたって本社が置かれていたが、手狭になったために移転した。また、この本社移転に合わせて、それまで銀座の木挽館にあった珪素樹脂部も東銀ビルに移し、ここに文字どおり全社一体となった本社が誕生した。こうした陣容で、当社は大量生産・大量消費が本格化する1960年代後半から1970年代へと向かうこととなった。
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