信越化学工業は創立100周年を迎えました信越化学工業は創立100周年を迎えました
第2章

新たな挑戦の始まり

世界最大の塩ビメーカーへ

1990-1994

この章で知れること

  • 金川千尋の社長就任と断行した社内改革
  • 「Z委員会」での新規事業の育成と「G委員会」でのコスト削減の取り組み
  • 世界規模で進めた主力事業のさらなる海外展開

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世界最大の塩ビメーカーへ

急ピッチで進んだシンテックの増強

シンテックのフリーポート第3工場スタートアップセレモニー

米国陸軍から金川社長に贈られた感謝の額

1990(平成2)年当時、当社、シンテック、シレスの当社グループ3社の塩ビ生産能力は、1990年12月完成予定のシンテック第5次増設分を含め年産130万tに達しようとしていた。これは世界の塩ビ生産能力の6%を超え、フランス一国の生産能力に匹敵する規模であった。
シンテック第5次増設工事は、1990年12月に予定どおり完成し、生産能力が年産90万tを超える米国最大の塩ビメーカーとなった。
この第5次増設工事によって、フリーポート第3工場が建設された。この結果、シンテックは独立した3つのプラントを擁することになった。万が一、いずれかのプラントで生産が停止する事態が生じても、他の2プラントは生産を継続できるので、より強固な安定供給体制が確立された。このことは需要家の信頼をさらに高めることになった。
1990年の米国塩ビ市況は軟調に推移し、1991年も景気低迷が懸念されていた。それにもかかわらず、シンテックの1990年の生産、販売量は過去最高となった。また、財務面でも1990年12月期の流動比率は520%、自己資本比率は83.3%に達しており、米国の化学メーカーのなかで群を抜いた存在となっていた。
不況下にあった1991年初め、金川社長は1993年春頃には米国の景気が回復期に入ると判断し、不景気の時期に増設を行い、好況期に備えることがもっとも効果的であるとして、この頃から第6次増設計画(第3工場の増設)に着手した。
1989年以降の米国の塩ビ不況で、同業他社のなかには塩ビ部門の売却やプラント閉鎖による事業撤退の動きもあり、市場は一段と寡占化が進むと予測された。この間にシンテックは生産能力を増強し、シェアを高めることで、成長力拡大を図った。
1991年も米国の塩ビ市場は不振を極めたが、シンテックは1990年末に完成した第3工場でフル生産を行って内販、輸出とも伸ばし、1991年の販売量は前年を上回った。米国では塩ビの価格下落が続いていたにもかかわらず、販売量を拡大させることで、1991年12月期は前年比増収増益を達成した。
特に輸出においては、すでに50カ国以上に製品を出荷しており、シンテックの塩ビは、世界でもっとも著名で信頼できる製品であるという評価を得たブランドとなっていた。世界市場でトップシェアを確保することは、価格決定力の確保や有用な事業情報の獲得につながるため、極めて重要な意味を有している。この点を鑑み、シンテックでは、米国市場での拡販とともに、輸出にも力を注いだ。
シンテックの第6次増設は1992年9月末に完了、生産能力は年産90万tから110万tに高まり、米国での生産能力シェアは20.9%に達した。これによって当社グループの塩ビ生産能力は、鹿島工場の年産37万t、シレスの年産13万tを加えると160万tに達し、世界最大の塩ビメーカーとなった。
シンテックでは、この第6次増設においても、従前どおり工事完了直後からフル生産・フル販売に取り組み、この年の販売量は1976年に全額出資子会社化した時点の13.2倍、1人当たりの生産性は4.4倍と、シンテックの少数精鋭主義の実績を上げていた。
1992年に出された米国商務省統計によると、日本企業の過去5年間の対米直接投資における利益率は平均0.8%にすぎず、「米国を買い占める日本」といわれた1980年代に米国に進出した日本企業の多くは苦戦を強いられ、撤退する企業もあった。
このような状況を考えると、シンテックの業績の伸びは極めて異例のことで、それだけに、その経営に米国でも注目が集まっていた。
塩ビ事業では市況変化への的確な対応が必要だが、シンテックでは需要家からの受注のパターンなど、日々の小さな変化も見逃さず、市況変化の兆しを注意深く読み取っていた。月前半にオーダーが集中しているときは、需要家はフル生産だが、需要家の操業度が落ちてくると、需要家はそれでも契約量を消化しなければならないので、月後半にオーダーが偏ってくると推定することができた。
このようなきめ細かな市場への対応と読みを総合することで、フル生産・フル販売が実現した。もちろん、この成長は、営業、生産、出荷など各部門を担当する従業員一人ひとりの努力の成果でもあった。
1994年に入ると、米国では旺盛な住宅建設を反映して、塩ビパイプ、サイディング(外壁)材、窓枠などの用途で硬質塩ビが顕著な伸びを見せ、同年のシンテックの販売量は前年比11%増と、それまでの実績をさらに伸ばした。
1994年12月期は、売上高、税引前利益、税引後純利益とも過去最高となり、税引後純利益を円換算すると、1995年3月期の当社単体の当期純利益をしのぐほどになっていた。
また、1990年当時、シンテックは生産増強に合わせて原料の安定確保を図るため、ダウケミカルと長期購入契約交渉を進めていた。ダウケミカルがフリーポート地区で塩ビモノマーの増設を計画していたからである。お互いに隣接していることから、シンテックはダウケミカルからパイプラインで塩ビモノマーの供給を受けていた。このパイプライン輸送による塩ビモノマーを確保することで、塩ビモノマー輸送時のリスクが解消され、ますます安全で安定した操業が可能であった。
シンテックとダウケミカルとの関係は良好で、1990年4月にはダウケミカルの最大の需要家として、同社の迎賓館で催された感謝パーティーに、金川社長をはじめシンテック幹部が招かれたことは、第1章第Ⅱ節で触れた。
その後、第6次増設工事が完了すると、シンテックのフリーポート工場は、塩ビ単一工場としては世界に類のない年産110万tの生産能力を有するに至り、ダウケミカルの最大の需要家となった。1993年8月にはダウケミカルのポポフ会長宅に金川社長が招かれ、親交を深めた。その後も、米国や日本で両トップは会談を重ね、強固なパートナーシップを築いた。

◆K-Bin、8年間で生産能力17倍に
シンテックが1985年に設立したK-Binは、塩ビボトルなどに使われる硬質用塩ビコンパウンドの生産、販売を手がけてきた。1991年6月には年産4万5000tへの増設工事を終え、汎用から特殊グレードにわたる生産体制を確立した。1992年11月末にも増設工事が完成し、年産11万tに生産能力を拡大した。その後も増設を続け、1994年6月には年産17万tに達した。1986年12月の生産開始時に年産1万tだったことからすると、8年間で17倍という能力増であった。
このK-Binで製品販売マネジャーを務め、米国陸軍の予備役中佐でもあった従業員が、1991年2月、湾岸戦争に召集された。このとき、シンテックの指導のもとで、K-Binはこの従業員に従軍期間中も給与を支給し続けたほか、その担当職務を他の従業員が協力してカバーした。
米国陸軍はこれに対し同年8月、従業員が祖国を守るために召集された場合の雇用主の模範であるとして、シンテックの社長である金川社長に感謝の額を贈った。また従軍した従業員からも「従軍中に金川社長、シンテックおよびK-Binの皆さんから多くの精神的励ましと援助をいただき、後顧の憂いなく軍務に従事できたことを、心から感謝します」との感謝の言葉が寄せられた。
シンテックは、従業員への処遇においても、米国社会に対して敬意を払い、地域に根ざした企業活動を進めるべく、きめ細かな配慮を怠らなかった。

バブル崩壊下で健闘する国内事業

一方、国内塩ビ事業は岐路を迎えていた。当社の1989年度の塩ビ生産量は業界平均を上回る伸びを示し、国内トップシェアを維持していたが、1990年5月、塩ビ事業本部長として塩ビ事業を主導していた金川副社長は、経営陣に対し、日本の塩ビ市場に関するいくつか危惧すべき点を述べた。
第1に挙げたのは原油問題で、原油価格が高騰すると鹿島コンビナートは競争力を失うため、増設計画は慎重に考えなければならないというものであった。
そして第2は韓国、台湾企業の台頭で、この増設計画が予定どおりに完成すると、日本と東南アジアの塩ビ市場に波乱が起こることも予想された。
第3には、今後も塩ビの競争力を維持するためには、原料確保に向けた新たな投資が必要であるということだった。そのうえ、この頃になると、食品包装に使用されている塩ビ製品の廃棄物が環境に悪影響を及ぼすのではないかという説に、社会的な注目が集まり始めていた。
金川副社長は、廃棄物問題の顕在化で需要構成が変わってしまう可能性があるので、比較的業況のよいうちに、ゼロ成長になっても利益を出せる事業基盤の構築に取り組まなければならないと指摘した。
1990年後半になると塩ビをはじめ多くの製品で市況が悪化するなかで、金川社長は景気の基調が大きく変化し始めたことを看取していた。景気の先行きに危険信号が灯ったとして、各事業部に長期安定需要家への販売拡大、スポット販売、輸出などあらゆる営業努力を重ねるよう指示するとともに、工場には原単位を向上させ、かつ生産性を高めるよう指示した。塩ビ事業本部も、この方針のもと、需要家へのきめ細かな販売活動を進めるとともに、生産性の向上に一段と力を注いだ。
それまで9年連続で拡大し続けてきた日本の塩ビ生産量は、1991年度にマイナスに転じた。当社は販売拡大に力を注ぐことで、1991年度はわずかながらも出荷量を伸ばし、国内塩ビ生産量シェアも拡大した。
しかし、1991年2月の湾岸戦争終結以降、塩ビ市況は低迷しており、収益力を高めていくには生産量の全量販売に向けて引き続き全力を挙げるとともに、値上げを視野に入れる必要も迫っていた。
なお、塩ビ価格の決定は、当時、いわゆる価格後決め方式(注)がとられており、価格安定に対する障害になっていた。この商慣行是正問題は、その後も長く塩ビ業界の課題として残り、2004年まで、需要家との間で折にふれ交渉課題として浮上することになった。
1992年からは、いわゆるバブルの崩壊によってわが国経済は深刻な不況に陥った。塩ビ市況が下落する一方で、輸入原料(EDC、エチレン)価格が上昇し、採算悪化に直面した。当社は、前述のあらゆる営業努力を重ねるという方針に従って、国内市場では需要家への密接な対応を図った。同時に、フル生産を維持・継続するために輸出にも力を入れ、シンテックと連携して海外市場拡大に取り組んだ。鹿島工場ではこの時期、環境対策にも積極的に取り組んでいた。これは塩ビモノマー排出量の自主管理基準の改正に対応するもので、1991年には塩ビモノマー環境対策3年計画を立ち上げ、第1工場の密閉化を進めた。
また、塩ビ生産工程における環境負荷の削減は避けて通れない課題であったが、環境対策を単にコストアップ要因と捉えるのではなく、むしろ生産性向上の一つの契機と捉える積極的な取り組みも行われた。
こうして、1994年には環境対策としての密閉化工事も完了し、新たな時代に対応する生産体制を整えるに至った。
(注)価格後決め方式:塩ビ業界特有の商慣行で、販売単価を毎年3月と9月末にそれまでの6カ月分をさかのぼって決める方式。

完成した中国の第2プラント

中国石油化工総公司の代表団が鹿島工場を訪問

ポルトガルのシレス

当社の1961年から1992年までの技術・プラント輸出の実績は、累計で取引相手国28カ国、同企業44社、同件数83件に達していた。
この間、1990年4月には、中国の上海市で年産20万tの塩ビプラントが操業を開始した。このプラントは1978年12月に、「第1プラント」(1988年に完成した山東省斉魯のプラント)とともに成約したものであった。
契約締結当時、「第2プラント」と通称されていたこのプラントは、建設場所に江蘇省南京市を予定していた。1981年2月には、第2プラント向けの機器が出荷された。ところが同年9月、中国側の事情により、南京の第2プラント建設は中止となった。
しかし、1982年10月に小田切社長が訪中して友好的に補足議定書を交わしたことで、当社は契約上の諸責任を負うことなく、工場完成までの指導に協力することとなった。
1986年2月、中国石油化工総公司の代表団が訪日した。第2プラントが上海市に立地を移して建設されることが決まったのである。代表団は小田切会長と会談して、工場建設および操業への協力を改めて要請した。
ここからプラントの建設が進み、操業開始へとこぎつけた。この間、11年4ヵ月という異例の期間を要し、プラントを運営する組織名も5回の変更を経ている。
このプロジェクトを担当していた国際事業本部の渡辺康彦副本部長代理は、プラント完成までの紆余曲折を振り返り、社報『信越化学』1990年4月号に寄せた記事をこう締めくくっている。
「当社の今回のプロジェクトの場合も、中国側の度重なる経済調整の影響から、建設工程は大幅に遅れたにもかかわらず、所定の業務管理を貫き通せたのは、当社の技術陣、鹿島工場および信越エンジニアリングの本プロジェクトに参加した方々の質の高い仕事の成果であり、心から感謝申し上げたい」。

シレスOBにポルトガル政府から勲章

勲章を授与された松本好弘

ポルトガルは1974年の革命によって社会体制が一変し、その後、経済再建などに苦難の時代が続いた。松本好弘が海外事業本部からシレスに出向したのは、革命から2年後の1976年のこと。ポルトガルの世情はまさに困難の真っ只中にあった。
松本は1977年、現地で定年を迎えるが、その後も海外事業本部欧州部長、国際事業本部長付など立場を変えながらもシレスと関わり、同社の発展に尽くした。
このように、16年間にわたりポルトガルの人々と苦楽をともにして、同社と産業界の発展に寄与し続けたことが、ポルトガル政府の高く評価するところとなり、1992年12月、松本に産業功労勲章が贈られた。
授与式は12月11日にシレスで挙行され、ポルトガルのミラ・アマラル(LuisFernandoMiraAmaral)工業大臣をはじめ現地の行政関係者や、平岡千之駐ポルトガル日本大使らの来賓が出席した。
当社は優れた技術・プラントだけでなく、このような従業員一人ひとりの誠実で真剣な仕事への志を世界に届けることで、多くの地域や社会の信頼を勝ち得てきた。