

国際変動化のなかで
1987-1989
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磯部工場のメチルシラン合成設備「MR-10」
シリコーン事業は1980年代初めにはすでに国内トップとしての地位を確立し、当社の重要な収益源となっていた。ただし、原料となるシリコーンモノマーは、既存の設備でフル生産しても自社で賄いきれなくなっていたうえ、シリコーンの事業環境も、円高による市場構造の変化、海外メーカーの日本市場進出などで、先行きは楽観を許さないものがあった。
成長の確保には、国内生産体制の再編成が最重要課題となり、当社はメチルシランを中心とした磯部工場の増強、シリコーンモノマー第2プラント計画、CFシランの直江津工場への移管、高付加価値製品の開発、海外展開、そして松井田地区への進出計画など、将来の事業の行方を左右する大きな意思決定を次々と迫られていた。
とりわけ急務となっていた磯部工場の増強計画の中心は、メチルシラン合成設備「MR-10」の新設であった。MR-10は、MR-6を撤去した跡地に新設され、1988(昭和63)年8月に完成した。
この最新鋭の設備は、装置が大型化されただけでなく、安全性を徹底すべく全面的にコンピュータ制御を取り入れ、自動化率を大幅に向上させた画期的なものであった。増設工事により、磯部工場のシリコーンモノマー生産能力は月産6000tとなり、従来の1.3倍に高まった。また、同時期にはメチルシラン蒸留工程の増設、コージェネレーション設備の新設、変電所の移転更新工事なども実施された。
これら一連の増強工事によって、磯部工場の生産能力は急速に拡大したが、『磯部工場グループ50年史1938~1988』には、「大げさにいうなら工場内の景観が一変するほどの新設工事が目白押し」と当時の工事の様子が描かれている。また、シリコーンの増産に向けた取り組みについても、同『50年史』には「大型設備をいくら建ててもきりがないほどの需要がシリコーンにあるいま、長期展望に立ち、攻守両面を兼ね備えた強力な企業基盤を確立すべき」ときであると記され、活気あふれる磯部工場の雰囲気を伝えている。
磯部工場の分工場である郷原分工場でも増設工事が行われた。
1983年7月に完成した郷原分工場は、大型連続生産設備と最新鋭の自動充填・包装設備を備えた、シリコーン一液型RTV(室温硬化)ゴム工場(B-Ⅰ工場)であった。その後1985年7月にはシリコーン二液型RTVゴム工場(B-Ⅱ工場)を加え、同分工場はシリコーンRTVゴム専用工場としての地歩を固めた。1980年代末には一成分形シーラント(シーリング材)とLIMS(注)材料が著しく伸び、シリコーン一液型RTVゴムの増産が不可欠となった。そのため、郷原分工場ではB-Ⅰ工場の増築工事に着工、1991年12月に完成した。
(注)LIMS=LiquidInjectionMoldingSystem(液状シリコーンゴム射出成形システム):液状のシリコーンゴムを精密・安定的に射出する成形機へポンプで移送し、金型内で硬化させることで成形するシステム。混合から成形までを自動化でき、工程を簡略・短縮化しながら高品質な製品を成形することができる。

シリコーンRTVゴムの使用例
磯部工場の増強が進むなか、シリコーンモノマーの供給拡大に向けた第2プラント計画も、具体的に動き出した。地理的なメリットが大きく、水資源の懸案も解決した松井田工業団地を1987年3月に当社が一括取得したのは、本章第Ⅰ節で述べたとおりである。用地は中央を通る道路によって東地区、西地区に分かれており、東地区はシリコーンモノマー、各種シリコーン製品などの既存製品と、ユーティリティ設備の展開を予定していた。また西地区は、シリコーン電子材料技術研究所や開発中の製品、および将来の新規事業のための用地として確保することが計画された。
1987月7月、まず西地区で、シリコーン電子材料技術研究所のパイロットプラントの建設が始まった。西地区には、その後、光ファイバー用プリフォーム工場やセラミックス工場などが相次いで建設された。
東地区では、1988年12月に松井田地区で初の本格的なシリコーン工場となる「P-Ⅰ工場」に着工した。P-Ⅰ工場はシーラントの主原料となるシリコーンオイル生産を中心とするもので、1989年9月に竣工した。続いて、シリコーン生ゴムとシリコーン熱加硫(熱硬化)ゴム(硬ゴム)の一貫生産工場(P-Ⅱ工場)が1990年8月に完成し、試運転を開始した。P-Ⅱ工場はP-Ⅰ工場で生産した環状シロキサンを原料に、シリコーン生ゴム、シリコーン熱加硫ゴムを一貫生産するシリコーンゴムの最新鋭工場であった。工場の完成によって、シリコーン熱加硫ゴムの生産能力は従来の1.6倍に増強された。
最重要課題であったシリコーンモノマー第2プラントについては、1989年8月に「シリコーン第2プラント推進委員会」(「Mプロジェクト委員会」)が発足し、宮坂勝郎専務取締役シリコーン事業本部長を委員長、日浦致取締役磯部工場長を副委員長として、自社技術による第2プラント建設案の検討に入った。
Mプロジェクトは1年間にわたり検討を重ね、シリコーンモノマー第2プラント新設の具体的計画を策定した。投資額は総額約200億円、生産能力は磯部工場のシリコーンモノマープラントのおよそ7割とされ、第1期工事として1992年度上期に完成させることとなった。
1990年8月には日浦工場長を本部長とする「M建設本部」が設置され、1991年2月に着工した。
工事は予定どおり進捗し、1992年3月、シロキサン換算で年産2万2000tの最新鋭の設備が新たに加わり、磯部工場の年産3万3000tと合わせて、生産能力は年産5万5000tとなった。Mプラントの稼働後については、次章で述べる。
多彩な機能を付加して、多様な要求に応えることのできるシリコーンは「産業の調味料」と呼ばれ、すでに幅広い分野に用途を広げていた。とりわけ1980年代以降、エレクトロニクス技術が長足の進歩を遂げるなかで、シリコーンの活躍の場は急速に拡大した。
かねてよりシリコーンの大きな需要家であった家電や自動車産業は、1988年以降の景気拡大で成長の一途をたどった。しかし、既存製品のなかには価格競争の時代を迎えたものもあり、シリコーン事業における利益拡大には、付加価値の高い新製品の開発と、生産規模の拡大や生産技術の改良などによるコストダウンが不可欠になっていた。
当社では、磯部工場における生産体制の拡充を進め、製法の改良、新規設備の導入、自動化・省力化による生産性の向上を図るとともに、収率の向上や操業技術の改善による原単位の向上に積極的に取り組んだ。
また、需要家の要望をいち早く取り入れた高付加価値製品の開発に取り組んでおり、当社のシリコーンの品種数は1970年代後半に1000種を超えたあと、1990年頃には約3500種となった。
内需拡大が進行した1980年代終盤にかけ、シリコーンはシーラント、自動車用ガスケットなどの産業用から、化粧品、ヘアケア用品などの民生用まで、一段と幅広い市場が開かれた。こうした動向に積極的に応え、営業、製造、研究の3部門が一体となって新規用途、新規需要の拡大に取り組み、活発な研究開発のなかから多くの画期的な技術が生まれた。
また、1973年3月にシリコーン事業本部が発足して以来、その基本的な組織体制はほとんど変わっていなかったが、1989年4月、大幅な改正を行い、国内営業、海外営業、管理の3部門に再編成し、責任体制の明確化、組織の活性化、将来構想の充実を図った。
1980年代後半、シリコーン事業において重要な課題の一つとなっていたのが海外展開であった。当社は、すでに国内でトップシェアを確保し、台湾、韓国においても最大手として優位を占めていた。その一方で、欧州、米国市場においては、現地の有力メーカーに比肩しているとは言い難い状況にあった。こうした海外におけるシリコーン事業の実情を踏まえ、台湾、韓国では、国内同様に圧倒的な優位性を維持すること、欧米市場では競争力を高めることが当面の課題であった。
当時、台湾のシリコーン市場は、円高基調の定着にともない日系メーカーの進出が急増し、当社の台湾向け輸出も激増した。台湾が新興工業地域として急成長を遂げつつあった頃で、台湾市場をめぐる欧米シリコーンメーカーとの競争も次第に激化していた。そこで、台湾でのシリコーンの地歩を確たるものにしていくために、1987年に合弁会社「崇信シリコーン股份有限公司」を設立した。出資会社と比率は当社20%、信建産業40%、崇越貿易40%であった。崇越貿易は1982年に設立された現地商社で、当社が9%の資本参加をしており、シリコーンを中心に当社製品を台湾で販売していた。
崇信シリコーンは、台北郊外の新竹拡大工業区に工場を設置し、シーラントの充填とシリコーンエマルジョンの生産から出発した。工場は、すでに台湾で事業を展開していた信越石英と崇越貿易との合弁会社、崇越石英股份有限公司(現・崇越石英製造廠股份有限公司)に隣接して建設された。
その後、崇信シリコーンは第2期計画として、当時、急速に販売量が伸びていたシリコーン熱加硫ゴムの現地生産を開始すべく、1988年4月に当社全額引き受けによる増資を実施した。これにより当社の出資比率は86.6%に高まった。崇信シリコーンは、1988年9月10日に社名を「台湾信越シリコーン」と改め、さらに最新鋭のシリコーン熱加硫ゴム大型生産設備を完成させて新たなスタートを切った。

シンエツシリコーンズオブアメリカの新社屋
世界最大のシリコーン市場である米国において、当社は1982年10月、ロサンゼルス駐在員事務所を開設した。さらに1985年12月には現地販売会社、シンエツシリコーンズオブアメリカを設立し、米国での事業を強化してきた。その結果、販売実績も順次上昇したことから、営業と一体となって技術サービスや顧客対応を迅速、的確に行う目的で、1987年3月、当社の全額出資子会社「シンエツテクニカルサービス社」を設立した。
同社は、販売会社であるシンエツシリコーンズオブアメリカとは別会社とし、実質的にはシリコーン電子材料技術研究所のロサンゼルス分室として運営し、同研究所から技術者を派遣した。
同社の建屋はロサンゼルス郊外のトーランス市のトーランス工業団地内に建設し、顧客サービスに必要なLIMS用成形機器をはじめ、最新鋭の実験研究設備を設置した。同じく米国西海岸でシリコーン事業に取り組んでいたロサンゼルス駐在員事務所とシンエツシリコーンズオブアメリカも同所に移転し、3拠点が常に情報交流を行い、営業と研究開発が一体となって米国市場開拓に臨んだ。
1988年12月には、この合同新社屋のオープニングセレモニーを開催した。トーランス市長のほか、米国の顧客や代理店の代表を招き、当社の優れた技術力に裏打ちされたシリコーン製品と充実したサポート体制を印象づけるとともに、地域社会との交流も図った。
一方、米国と並ぶ大きな海外市場である欧州においても、市場開拓に向けた取り組みが始まっていた。
当時の欧州は1993年に控えたEC市場統合に向けて域内経済も活性化していた。また、ハイテク産業の急成長で、シーメンス、フィリップス、オリベッティなどの在欧の有力企業に加え、世界の有力企業が欧州市場の開拓に向けて相次いで進出した。
このような環境下、当社は1988年1月に、まずオランダにアムステルダム駐在員事務所を開設、欧州市場の情報収集、販売活動などを進めた。続いて、1989年11月には、オランダに「シンエツシリコーンズヨーロッパ社」を設立した。同社は販売会社として発足したが、欧州に進出している日系の自動車、電機、事務機器メーカーなどからのシリコーンRTVゴムの需要が急増した。そこで、約2万5000m²の用地をアルメーレ市に確保して工場を建設し、1990年10月に完成した。
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