

創業からの60年間の歴史
1926-1986
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磯部工場の電炉工場(磯部金属試験所、磯部工場に改称)
終戦翌々日の1945(昭和20)年8月17日、直江津工場は早くも石灰窒素の生産を開始した。同工場が終戦直後の混沌とした情勢のなかで電炉の火を落としたのは、わずかに1日だけであった。終戦後の最大の課題は食糧増産であり、そのため肥料増産が不可欠となることを予測した小坂社長が、真っ先に石灰窒素の生産再開を指示したからである。同様に武生工場も軍需物資であるケイ素鉄の生産を中止し、少量ではあるが石灰窒素の生産を続けた。
この年は夏の冷害と秋の風水害で大凶作となったが、それが予想された9月時点で農林省(現・農林水産省)と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、食糧増産に向けて工場を指定して肥料増産を進めた。しかし、日本国内は空襲などによって生活や産業基盤が壊滅的な状態に陥っており、増産要求に対して石灰窒素の生産は稼働率が低い水準にとどまっていた。直江津工場も例外ではなく、1945年の生産量は1万6500t程度にすぎなかった。
1946年5月、当社はGHQおよび県知事に直江津工場増設の許可申請を行った。その内容は窒化炉16基を増設して、石灰窒素2万tを増産するというものであった。この申請が許可され、翌1947年5月までには新式窒化炉12基が完成して、生産能力は年産6万5000tにまで高まった。
直江津工場では石灰窒素以外の軍需物資の生産を中止したため、それに代わる新規事業を見出すことも急務であった。そこで酸素の生産や電気製塩を手がけ、親不知の石灰石の採掘設備を増強し原料確保に努めるなどした。
磯部金属試験所の場合は、終戦まで軍需物資だけを生産していたので、戦後の民需転換には多くの困難がともなった。まず、仕事がないので、1945年8月に314名の従業員のうち173名を帰休させた。10月1日には名称を磯部工場と改め、再建に漕ぎ出したものの、残った従業員に与えられた仕事は、農機具の修理、鍋や釜など家庭用鋳物製品の生産などであった。仕事らしい仕事が始まったのは1946年2月からで、磯部工場にマンガン鉱石の大量在庫があったことから、マンガン鉄の生産を再開した。国内経済政策では、この年の暮れから1947年にかけて、重点生産物資として鉄鋼、石炭などを指定し、そこに集中的に資材および資金を投入して再建を図る「傾斜生産方式」が取り入れられた。そのため、鉄鋼生産に不可欠なマンガン鉄などの脱酸脱硫剤の生産・販売が増加していった。
このほか、1940年4月に有機薬品を生産する目的で設置した有機実験室の流れをくんだ医薬品のほか、大型鋳物、変圧器ケースなど、多様な製品の生産も試みられ、これらにより業績は徐々に好転した。
武生工場は、1945年5月に大同化学工業を吸収合併して発足後、わずか3カ月で終戦を迎えただけに、戦後になっても軌道に乗るまでには長い苦難の道のりが続いた。そもそも生産設備の刷新や電炉操業技術の水準向上を進めるために、当社の高い技術・ノウハウが求められて合併に至った経緯があった。
このため、戦後の石灰窒素生産においても、需要に応えるだけの品質と生産量を確保するには、直江津工場から従業員を派遣して、技術の向上と設備の改善を図る必要があった。しかも行政当局の厳しい増産要求にも応えなければならなかった。
こうして、ついには保証窒素成分を下回る製品が出荷される「低成分事件」(注)が発生した。そのうえ、1948年6月28日にはマグニチュード7.1という福井大地震に見舞われ、12基の窒化炉が操業不能に陥った。この結果、武生工場では生産設備の更新が急務となった。
(注)保証窒素成分を下回る製品を出荷したことで、1948年2月、当社は福井県肥料検査所によって告発され、起訴された。1952年4月、対日平和条約発効による恩赦により免訴となった。

直江津工場のゼーダーベルグ式電炉
1948年から1950年にかけて、窒素系化学肥料の主流となっていた硫安、石灰窒素の国内生産量は、戦前の最高水準を上回るようになった。14年間続いてきた肥料の生産・供給統制は、これを機に解除されることになり、自由な価格競争が始まろうとしていた。このため当社は1949年、直江津工場および武生工場の設備更新を実施した。1948年から1949年にかけて、武生工場では福井大地震で破損した窒化炉に代わる新式の窒化炉8基を新設し、直江津工場ではカーバイド電炉の改良とともに、ベルトコンベア、集塵装置、倉庫などの荷役設備の合理化工事を行った。
これらに加えて、両工場では石灰窒素生産の中心設備となるカーバイド電炉を、新式のゼーダーベルグ電極方式(以下、ゼ式)に転換する工事を行った。ゼ式への転換と電炉の大型化は、当社でも早い時期から検討を進めてきたこともあって、自力での設計、建設が可能になっていた。この工事はゼ式の頭文字のZをとって「Z建設」と名づけられた。Zには日露戦争の日本海海戦で決戦の意志を込めて旗艦「三笠」に掲げられた「Z旗」の意味も含められており、まさに社運を賭して設備刷新に取り組んだ。Z建設の第1期工事(Z-1建設)は1949年9月に着工、翌1950年4月に完成した。直江津工場では旧1、2、3号炉を撤去して、電気容量が旧炉のおよそ150%となるゼ式電炉を2基建設した。武生工場では3号炉の電気容量を拡大し、電極工場の合理化、窒化炉の増設を行った。引き続き1950年8月に着工したZ-2建設では、直江津工場が旧4、5、6号炉を撤去してゼ式3、4、5号炉を建設、また武生工場では、電気容量を拡大した3号炉をゼ式に転換するとともに、4号炉もゼ式に切り替えた。Z-2建設は1951年4月に完成した。直江津工場では、このゼ式炉の導入と荷役設備の合理化などの効果でコストの大幅削減を実現した。また、新型設備では高温下での電極交換作業がなくなったほか、原料投入も自動化されるなど、従業員の作業環境が大幅に改善された。
主力事業のカーバイド、石灰窒素の増産と並行して、新規事業の育成にも力を注いだ。当社が新規事業の柱と目していたのは、医薬品とシリコーンであった。医薬品は1946年11月、磯部工場でスルファチアゾールの試験生産として始まり、シリコーンの研究は1949年10月に磯部工場でスタートした。
1950年5月には、東京都港区青山に中央研究所を設置した。当社の研究部門としては1949年6月、磯部工場の研究室を昇格させた東京研究所が本社に設置されていた。しかし小規模であり、実際の研究は研究者を通商産業省(以下、通産省:現・経済産業省)の東京工業試験所や民間の研究機関に派遣して行っていた。
新研究所は、これらの研究機関から引き揚げてきた従業員と新規採用者により体制が整えられた。ここでの研究テーマは、当初は医薬品、レッペ化学ーアセチレン高圧合成、石灰窒素誘導体、有機ケイ素化合物、製袋など7テーマであった。
研究を進めていく過程で、重要研究対象がシリコーンと流動法による石灰窒素に絞られ、1950年代前半にはシリコーンの事業化の見通しがついた。
1952年4月、磯部工場のスルファチアゾールの生産を打ち切り、人材を有望なシリコーン部門に集中して投入した。そして、シリコーンは1953年に事業化された。
これに続く新規事業の開発に向けて、中央研究所の体制拡充も進められ、1955年3月には本社から独立した組織となり、同月、東京都大田区の大森に移転、拡張した。
翌1956年3月、長期計画の基礎となる新研究について社長の諮問に答える「新研究総合委員会」が本社で発足した。同委員会は小坂徳三郎副社長を委員長に、常務、中央研究所の各部長、工場長で構成され、既存設備による生産性向上と品質改善、天然ガスおよび電炉ガスの利用、新合金、軽合金、アセチレン誘導体、新肥料の研究や技術の向上をテーマとして研究を推進することを決定した。
続いて1956年6月には、酢酸ビニル(酢ビ)、ポリビニルアルコール(ポバール)の研究室を設置した。さらに同年7月には、か性ソーダ、塩化ビニル(塩ビ)の生産と、天然ガス塩素化計画を発表するとともに、直江津工場で電解と塩ビ生産設備の建設を開始した。

直江津工場を視察するデミング博士(中央)
1950年代に入ると、経営近代化に向けてQC(品質管理)への取り組みが本格化した。まず1950年6月には「事務能率刷新委員会」を、同年9月には「経営能率刷新委員会」を設置し、QC実施の前提となる事務分析、工程分析を経て改革案が策定された。そして、1951年4月から1956年3月までを第1次QC5カ年計画として、1951年中に本社および3工場に管理室を設け、QCを推進する体制を整えた。
直江津工場では、1950年12月から1951年5月までの半年間にわたってQC導入の先行実験を行い、製袋工場の生産時間短縮、作業配置の改善、工程改良により年間1000万円の合理化が可能との結論を得た。同様に武生工場、磯部工場でも試験的なQCの導入が行われ、大きな合理化効果が得られた。これらの試験的導入の成功は、工程および作業の科学的なマネジメントに対する自信を深める結果となり、従業員も新手法の導入に期待を寄せるようになった。QCを推進するためには、生産現場にQC手法を十分に理解し、同時に指導力を持ったリーダーが存在することが不可欠であった。そこで若手従業員を研修に参加させるなどしてリーダーの育成に取り組んだ。また、従業員には社内外の講習会への出席を奨励した。同時に全工場で作業標準書、作業指図書の作成に取り組み、1953年4月にこれらを制定した。さらに同月、本社には「中央管理委員会」、各工場には「工場管理委員会」を設置し、製品の社内規格、購入原料の規格、品質および作業の準則、検査制度の運営などを検討した。このようなQCに対する取り組みの進展を踏まえ、当社は1953年5月にデミング賞委員会に報告書を提出し、審査を受けることになった。同委員会の2次にわたる審査を経て、同年11月に第3回デミング賞実施賞を受賞した。さらに第1次QC5カ年計画の終了を間近に控えた1955年12月、直江津工場を視察したデミング博士(Dr.W.EdwardsDeming)から、「私がいままで見てきた世界中の会社、工場のなかで、この直江津工場ほど立派に統計的品質管理を実行しているところはない」との高い評価を得た。QC活動はその後、1956年4月からの第2次5カ年計画に引き継がれ、徹底した品質管理に取り組む組織的な土壌が形成された。
1950年8月、肥料配給公団が廃止され、肥料の統制が撤廃された。当社が自営を再開した1937年には、すでに肥料の統制制度が実施されており、自由販売は初めての経験だった。当社はこの自由化に備え、1950年の年初から販売の組織化に取り組み、農業協同組合(以下、農協)で資材購入を行うための全国組織、全国購買農業協同組合連合会(以下、全購連)との提携を進めた。この時期、農協は経営的に不安定な要素を抱えていたが、いち早く農協系機関との連携を明確に打ち出した当社の方針は農協系機関から好感され、その信頼関係は、その後の肥料事業に大きく貢献した。
1951年、1952年は、朝鮮戦争を背景とした特需景気によって肥料の需要も増加し、石灰窒素の利益が、よう成燐肥、粒状石灰窒素の製造研究、カーバイド電炉の増改築に充てられた。
1953年には耕土培養法が施行され、石灰窒素の土壌改良効果が認められて、その使用が奨励されると、生産は順調に伸びた。1955年には、当社および業界全体の石灰窒素生産量はピークに達した。
しかし石灰窒素業界は、好調な事業の伸展が過剰な設備投資を招いて市況が低迷し、ときには輸出による調整も迫られた。これに追い打ちをかけたのが、1956年、1961年に政府、全購連によって実施された石灰窒素から尿素、塩安への転換運動であった。
当社の石灰窒素事業が売上高全体に占める比率は1950年代後半、徐々に減少し、1960年度(1960年6月1日~1961年5月31日)には新規事業である塩ビとシリコーンの売上高合計が肥料、合金鉄の合計を上回った。こうして当社事業の主力の座は、1960年を境に肥料からシリコーン、塩ビへとバトンタッチされた。
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